log osaka web magazine index

日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


24 読解できないもの その2

『テーパノン/Thep-pranom』クロスレビュー:藤田一×dance+メガネ

作品レビュー
                                      執筆者:藤田一

 Khonとは、命と生命についてのダンスである…ダンサーにとってトレーニングとは、それをフレーズとして知ることではない、その意味を知ることである…ダンスは、意味によって満たされるべき(meaningful)であり、ただ人を楽しませるもの(entertaining)ではない…。舞台背面に一人の女性がつらつらと文章を書いていく。それは、タイの伝統舞踊をマスターした後、ヨーロッパで様々なコンテンポラリーダンスのテクニックを学び、それらの経験をもとにしながら自らの伝統舞踊の新たなありかたを探っているピチェ・クランチェンの、芸術家としての宣言と言えるでしょう。

 3月3, 4日に大阪のdance Boxで、Osaka-Asia Contemporary Dance Festivalの一環として上演された彼の「大阪滞在制作作品」は、オーディションによって選ばれた4人のダンサー・俳優と共同制作されました。私たち日本人にとっては、近いようであまり知らないタイの、それもさらに情報が殆ど渡ってこない現代舞踊家のダイレクション。一体何が飛び出すのか?そんな気持ちで作品にのぞんだ観客も少なくなかったのではないでしょうか。

 冒頭、黒い服を着た4人のダンサーたちが一人一人現れ、真っ黒な床や壁に白いチョークで三角や四角、円、矢印など、様々な幾何学的模様を描いていきます。一人一人のダンサーが描く絵は各々異なった方向性を持ち、特に両壁面は対照的な印象を与えるものとなっていました。左側(下手側)が数学式の様な記号を用い、三角や四角など角張った図を描く一方で、右側(上手側)では曲線を多用し、まるで植物の茎のような自然物的モチーフが次々に現れます。まるでそれは、知性と感性が対峙しているようです。しばらくすると客席に座っていたクランチェン(彼も黒い服を着ていました)が舞台に現れ、ダンサーたちが描いた絵を修正していきます。直された絵は宗教的なイメージが挿入され、例えば床上の四分割された四角形は、その角を曲線にされ、中央をかたどり、マンダラのような模様に変えられていきます。まるで、人の書く/描くものすべてに宗教性が潜んでいると示すかのようです。


 
  写真:阿部綾子
 
 その後一人の女性ダンサーが舞台上に残され、先に述べた英文を舞台奥の壁面に書き始めます。彼女が書き続ける姿を背景に、他のダンサーが再び舞台上に現れます。下手の俳優は舞台上手側でどっしりとした構えで正面を向いて座りながら英文の和訳を張りのある声ですこしずつ読み上げます。そして舞台中央にクランチェンが立ち、まず伝統舞踊の様々な動き(タイの伝統舞踊にある男型、女型、猿型)を見せ、その後典型的なコンテンポラリー・ダンスの動き(リリーシングを用いたしなやかで連続的な運動)を見せます。男性ダンサーも、舞台下手奥でモダンダンスの運動(スパイラルなど)と、股を大きく開いて正面を向き腰を落としたタイ舞踊における基本姿勢を見せます。しかし、それの何処から何処までがタイ舞踊の伝統的な運動で、何処から何処までが現代舞踊のそれなのか、明示的に示されているわけではありません。事前に知識を持っていない人にとっては、いくつかの運動は曖昧に捉えられることになってしまいます。彼らの背面に書かれた文章、「ダンサーにとってトレーニングとは、それをフレーズとして知ることではない、その意味を知ること」を再び参照するなら、どんな運動であれ訓練された身体において展開される時、それらは等しく「形」から「意味」へと昇華しうることを示しているのではないでしょうか。

 このように、本作品には、アジアの伝統芸能を私たちがしばしば思い浮かべるような豪華絢爛なイメージも、ありませんし、コンテンポラリー・バレエに見られるような卓越した身体が提示されるわけでもありません。非常にシンプル。様々な解釈が可能なシーンが淡々と展開されるだけです。では、この作品全体から私たちは、一体どんなことを読み取る/受け取ることが出来るのでしょうか。


 
  写真:阿部綾子
 
 本作品ではしばしば2つの対極にある様な事象が同時に示されていました。例えば自然的図形と幾何学的図形、又は伝統的タイ舞踊のテクニックと現代(西欧)舞踊のテクニック。しかしそれらは互いに否定しあったり、関係性を持たず並行して扱われることはありませんでした。前者、図形においてはそこに共通して潜む宗教性(宗教的イメージを彷彿とさせる図形)が見出され、後者においては、それらの違いが明確に分からぬ様、曖昧に踊られていました。対局にある事象がそのようにいわば「同居」している様はまさに、現在的(ほぼ同義的には、西欧的)文脈であるコンテンポラリー・ダンスのテクニックが流入する、伝統的タイ舞踊が置かれている現在の状況、そのものの喩えといえるのではないでしょうか。つまり、そうした「状況」を見つめ、その中で、Khonがいかに残っていくのか、或はその「状況」をどう超克していくのかということを、まさに舞台上で探っていこうとしているのではないでしょうか。

 舞台背面に書かれた文章、私が冒頭で触れたピチェのあの宣言を振り返れば、彼はKhonは表層的にではなく、「意味」、見えているものの裏側に目を向けることで分かり得るものがあると説明していました。つまり、こうした舞台上に「状況」を投影し、関係性(=見えないもの)から思索を始めていこうとする本作品の方向性は、彼のこの宣言に基づいていると言えるでしょう。そこから私は、ピチェットの作家としての真摯な姿勢を読み取ります。伝統舞踊ダンサーとしてでも、現代舞踊ダンサーとしてでも、何か肩書きを持った誰としての自分ではなく、そうしたもの以前の、まさに自分のありかたに立ち返って、彼は創造を行っているのです。だからこそ、作品の外見も、一見して何かのありかた(アジア、西欧、伝統舞踊、コンテンポラリー、バレエetc...)に拠ることのない、シンプルなイメージが立ち上がっているのでしょう。


 
  写真:阿部綾子
 
 しかし実は、こうした(伝統舞踊の、バレエのダンサーといった)肩書きにとらわれず作品をつくっていくという姿勢は、個人の考えを大切にする西洋的なスタンスであると言うことも出来ます。では、この作品に「アジア的」、そうでなくとも西欧的なものとは全く異なった特徴的な何かを見ることが出来るのでしょうか。私はそれを、身体の複雑さ/曖昧さ/混沌、言葉に表し得ない身体性を、ただそのままに扱う姿勢にみることができると思います。これは彼がフランス人ダンスアーティスト、ジェローム・ベルと共同制作した作品「Pichet Klunchen and Myself」で直接言っていたことでもあるのですが、彼は伝統舞踊のトレーニングの必要性を否定していません。「ダンサーにとってトレーニングとは、それをフレーズとして知るためではない、その意味を知ることである」わけですが、かといってその流れは逆でなく、意味を先に知ることによってトレーニングを理解することは出来ません。つまり、トレーニングを通じて初めて知り得る何か、言語化し得ないものも含めたそれを知ることをさして彼は意味と表しているのです。したがって彼にとって意味とは、言語と対照関係にある(例えば辞書に示されている)「意味」ではないのです。これは、しばしばダンスの運動を単純な身振り(=何かの記号)として提出/理解しがちな西欧的思考とは異なるものであると思います。これをすぐにアジア的と断言することはできませんが、私の経験では、日本の暗黒舞踏や、国際的に知られるようになった「間(ま)」も、こうした言語以前の身体感覚に根ざした思考を持っていると思います。

 遠くの国、私たちの知らぬ文化を持った人々の作品は、私たちの論理や価値観で捉えきれない様々な要素を含んでいます。しかしながら、アーティストがそれぞれの状況に於いて、真摯に作品に取り組み、思索を重ねたならば、その作品はどんな観客に対しても、そうした違いを超えて、「何か」を伝え得ることが出来るのだ、今回目にして、そのことを改めて実感しました。ピチェはタイ伝統舞踊が今置かれている状況そのものを投影することで、彼の作家としての課題が一体どういうものであるかということを、私たちが理解し得るように提示することに成功していました。さらに加えてそこから、深い思索を経てなお残る、西欧とは違う身体への基本的向き合い方を、私たちは読み取ることが出来ました。アジア、コンテンポラリー・ダンスという枠組みにおいて制作/発表された本作品でしたが、単にアジアという地域性を超えて、私たちが共に感じ考えることの出来る場を生み出していたと思います。「何をやっても構わない」といわれがちなコンテンポラリー・ダンス、そのことによって深い思索なく「ともかくやってしまいました」という作品がしばしば見られる今日の日本のコンテンポラリー・ダンスシーンにおいて、彼の様な真摯な姿勢の重要性を私たちは改めて見直すべきなのかもしれません。

<< back page 1 2 3 4 5 6 next >>
TOP > dance+ > > 24 読解できないもの その2
Copyright (c) log All Rights Reserved.