しかし実は、こうした(伝統舞踊の、バレエのダンサーといった)肩書きにとらわれず作品をつくっていくという姿勢は、個人の考えを大切にする西洋的なスタンスであると言うことも出来ます。では、この作品に「アジア的」、そうでなくとも西欧的なものとは全く異なった特徴的な何かを見ることが出来るのでしょうか。私はそれを、身体の複雑さ/曖昧さ/混沌、言葉に表し得ない身体性を、ただそのままに扱う姿勢にみることができると思います。これは彼がフランス人ダンスアーティスト、ジェローム・ベルと共同制作した作品「Pichet Klunchen and Myself」で直接言っていたことでもあるのですが、彼は伝統舞踊のトレーニングの必要性を否定していません。「ダンサーにとってトレーニングとは、それをフレーズとして知るためではない、その意味を知ることである」わけですが、かといってその流れは逆でなく、意味を先に知ることによってトレーニングを理解することは出来ません。つまり、トレーニングを通じて初めて知り得る何か、言語化し得ないものも含めたそれを知ることをさして彼は意味と表しているのです。したがって彼にとって意味とは、言語と対照関係にある(例えば辞書に示されている)「意味」ではないのです。これは、しばしばダンスの運動を単純な身振り(=何かの記号)として提出/理解しがちな西欧的思考とは異なるものであると思います。これをすぐにアジア的と断言することはできませんが、私の経験では、日本の暗黒舞踏や、国際的に知られるようになった「間(ま)」も、こうした言語以前の身体感覚に根ざした思考を持っていると思います。