log osaka web magazine index

日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


2008年4月号「踊りに行くぜvol.8 SPECIAL IN OSAKA」

鑑賞日:2008年3月1日(土)15:00− シアターぷらっつ江坂

                                        Text: 亀田恵子

 

 

■ 振付・出演:KENTARO!!『東京で会いましょう』

 KENTARO!!は、ヒップホップ、ロックダンス、ハウスなどのダンスエッセンスをギュンと身につけたダンサーである。これまでありそうでなかった、ヒップホップ系ダンサーの「踊りに行くぜ!!」進出。即興を軸にヒップホップ技術と、その“こころ”をコンテンポラリーダンスに持ち込むという独自な視点が、やはり今回の注目ポイントだろう。
 

 
                                  撮影:野田知明

 舞台上、ブカブカのトレーナーに大きなリュック、耳にはイヤホンという姿の男が立っている。街の中でフツウに見かけることが出来そうな、そんな男だ。しかし、イヤホンから流れている音楽を熱心に聴いている様子の中にも、ふと奇妙なノイズのような動きが見え隠れする。全身でリズムをカウントしているのだが、段々そのノリが激しさを増し、やがてはBGMすら飛び越えてイヤホンが外れるほどの振動になる。ごくフツウの日常と、ふとした拍子でそこから逸脱していく危うさが漂っていく。

 男は、誰かと会話をしているようだ。もちろん、舞台上には彼しかいないのだが、誰かがいるかのように虚空を見つめたり、握手を求めて手を差し伸べる。作品は後半へめがけて、この“見えない誰か”に向けて演劇的に進行していくように思われた。

−−君と出会ったあの日から、一体どれくらい経ったのだろう。僕も大人になりました、多分。(中略)そしたら景色が変わり始め、言葉と気持ちが揺れてどんどん僕になっていくんです。このまま染まってしまってもいいのかもしれないけど……だけど、あの日の気持ちだけは変わらないんです。仕事も恋愛も超えて君に会いたい!!−− (作品コンセプトより引用)

 変化していく状況の中で、KENTRO!!自身が、さまざまに揺れ動いているのかも知れない。後半、客席に背を向けたまま苦痛の叫び声をあげるシーンがあった。ストレートな、素直な気持ちが情動となってわき上がる場面である。全身を震わせ、汗をしたたらせるKENTARO!!に、ごくありふれた街の男の姿が重なりあっていく。

 難しいと思うのは、やはりダンサーが得意としている個性をどう作品の中に取り入れ、咀嚼し、作品として提示するかだろう。KENTARO!!にとっては、ヒップホップなどの技術をどう取り込むかが個性を発揮するための大切なポイントになるだろう。ただ今回はまだ、作品中での個性と全体とのバランスがベストであったとは言い難い。作品中で踊られるヒップホップ的なムーヴメントには、やはり目を奪われる力がある。“もっと見せて!”と身を乗り出すエナジーがある。課題は、その魅力をどう繋いで1本の上演作品とするかではないか。物語のような流れを構築しながら、その途中でヒップホップを置いていくという構成を、もっと抽象的な動きに還元していってもいいはずだ。物語で説明をしなくても、“変わらぬ気持ち”の切なさを伝えることは出来るだろう。本来、ヒップホップの持つ“こころ”とは、理屈ではない、抑えることの出来ない衝動によって、ムーヴメントに変換されるものであるはずだから。
 
 ヒップホップを踊り始めた頃の、説明抜きの情動をもっともっと舞台に持ち込んで欲しいと思う。


■ プロジェクト大山『てまえ悶絶〜3000円くらいの自己肯定〜』

 「踊りに行くぜ!!」は開催も8回を数えた。新しい才能の発掘とコンテンポラリーダンスの普及などをめざすこのシリーズは、当然まだあまり知られていないアーティストたちと観客が出会う貴重な場所でもある。新人アーティストなどが参加する場合は前情報や露出度が少ない分、観客は白紙の状態で客席に座ることも多いだろう。今回の私もそういった状態で客席に座った1人であったのだが……。いやはや、それはいきなりだった。
 

 
                                  撮影:野田知明

 プロジェクト大山は、構成・演出・振付を古家優里が担当する、うら若き女性5名によるダンスカンパニーだ。お茶の水女子大学出身の彼女たちは、これまでに「悶絶シリーズ」作品を神楽坂セッションハウス、吉祥寺シアター、アサヒ・アートスクエアなどで上演。07年にはJCDN「踊りにいくぜ!!vol.8」に参加。大分、高知、淡路と巡回公演を経験している。この経験が彼女たちの感性をより刺激して“踊る”原動力に充填しているのか、彼女たちの舞台の印象は実にパワフルで爽快だ。この感覚は、自分たちの魅力や勝負ポイントを知り尽くしていることからくる(彼女たち自身が持つ作品への)信頼から来ているのだろう。若々しく健康的なセクシーさで、“女の子っぽいかわいらしさ”をいったんバッサリ落して見せる思い切りの良さ。そこに見ているこちらが吹き出してしまうような動きのおもしろさ(彼女たちは真剣な顔なので、きっとギャグを放っているつもりはないのだろうし、あれはギャグなんかじゃないのだろうが、とにかく笑ってしまう動き・顔の表情があることだけは確かだ)さえも提供してくれる。鍛えられた高い身体能力、かわいらしい女の子たちが見せるギャグすれすれなユニークな表情、シュールな動き、作品の構成力、そして若さ+弾けるような健康的なお色気……こうなれば、観客はこの絶妙なバランスに悶絶するしかない。ハートはガッチリ、彼女たちのものである。

 シンプルな舞台に、BGMは一定のリズムを基調としたものだが、彼女たちの動きとの組み合わせになると、途端に笑ってしまうユニークさが漂う。カラフルなタンクトップに黒の短パンという衣装に、顔は不機嫌かと思うほどの無表情。それが虫のような、すり足の動きで次々入ってくるのだ。ササササッと入ってきて、定位置に座ったり、立ったままで同じ仕草を繰り返す。このパターンは何度かくり返されるのだが、メンバーが順々に入場し、また散っていき、またサササッと入ってくることでスピード感が生まれる。1人目、2人目、3人目、と入ってくる彼女たち。動きの1つ1つには何の意味もないように思われるのだが、登場するメンバーが舞台上にそろっていくことで、それらの意味がつながっていく(つながった結果、それは爆笑を巻き起こすような絵が舞台上に描かれている)。1つ、2つ、3つ……おもしろさがカウントダウンのように展開していくリズム感は、観客の集中力を途切れさせることがないほど計算された構成力を持っている。

 思いきりよくガッツポーズでふり上げられる腕、険しいしかめっ面からグシャっと崩される表情、女の子が普段見せないような無骨な動き……そうしたことを、とにかく思いきりやってしまう彼女たち。そこから浮かび上がってくるのは、5人のメンバーそれぞれの個性であると同時に、ダンスを心底楽しませてくれる心意気だ。“かわいい女の子の皮をかぶったダンスのオオカミ”そんな風に彼女たちを呼んでみたくなる。彼女たちになら、食べられちゃってもかまわないなぁと思えるのだ。


■ 白舞寺 White Dance Temple『過火 Crossing Fire』

 海外からダンサーを招致しての開催は、昨年の 「踊りに行くぜ!! IN ASIA」の大きなうねりを継承したものだが、今回のSPECIAL IN OSAKAでは台湾の白舞寺が登場した。女性3人によるダンスユニット“白舞寺”。アジアのダンスシーンにふれる好機であった。

 ダンス=舞踊が持っている根源的なチカラ。それは儀式での精神の高揚や、その場に座する者の一体感をつくりだすこと、それに伴って踊る身体そのものをも日常とは違う別の存在へと変貌させてしまうことなどがあげられるだろう。舞台表現という“見る者”と“見せる者”という2つの立場にダンスが隔てられたとき、こうしたチカラはどこへ行ってしまうのか……。白舞寺は、この素朴な疑問に力強く答えてくれた気がする。
 

 
                                  撮影:野田知明

 冒頭、戦火を思わせる映像が流される。インパクトのある映像は、次に現れるだろうダンサーの強度を非情に問うものであり、映像を使う側にとってはハードな素材だ。メッセージ性の強い素材に対峙するにはそれなりのインパクトが必要だと考えるのだが、そもそもダンス作品のインパクトとは何だろう。奇抜な衣装や舞台装置だろうか?ズバ抜けた身体能力だろうか? 見たこともない動き、大胆な構成だろうか? 白舞寺に関しては、それらのいずれも“ちょっと違う”ような気がしている。衣装はごくシンプルな白の衣装(後半、それを脱ぎ去るがそれも黒のタンクトップにショートパンツといった飾り気のないもの)だし、アクロバティックな動きを見せるものでもない。3人のエキゾチックな面立ちの女性たちは、ほぼ全編にわたって、身体を上下に揺らすような動きをくり返していることが大半だった。流れる太鼓のBGMも一定のリズムを刻んでいることがほとんど。斬新な演出は皆無だ。

 それにも関わらず、彼女たちの作品は不思議と見る者の心をひきつける。台湾古式の清めの儀式“火渡り(台湾語では過火)”から名付けられた作品タイトルからもわかるように、彼女たちがダンスの根源としてとらえているのが、過去から連綿とつづいている“儀礼”のチカラであることは想像に難くない。舞台後方から、身体を上下に揺すりながら強い視線で前方を凝視してジリジリと進んでくる姿はトランス状態を行ったり来たりしているように思えるが、決して自分を失っているようには見えない。身体をある一定の状態に持っていくことで、身体がどうなるかをきちんと把握しているのだろう。トランスに陥りそうな身体を御するには強い精神が必要とされる。この“限りなく制御不能に近い身体”と“冷徹にコントロールする精神力”が、伝統的な儀式のチカラを通底させながらも現代の舞台上に息づかせている白舞寺の最大の魅力だろう。“見せる側”が“見る側の観客”に向かって刹那に見せるダンスではなく、過去の原点から現在までにわたる時空の流れを切り開き、その断面を見せる壮大なダンスなのだ。

 戦争や政治色のあるメッセージ性の強い作品は日本のコンテンポラリーダンスの中ではあまり見かけることがないが、彼女たちはこのテーマに“伝統”という切り口でまっすぐに斬りこんでいく。それは“伝統”が現代に圧されて消えていってしまうか弱いものではなく、人間が生きていく限り途絶えることなく続く生命力を持っているのだと教えてくれる。生命力は、政治や戦争の“ケガレ”さえ浄化し、生きる根強さへと変換していくということだろうか。白舞寺の作品は、生きる人間の逞しい力を見せてくれるダンスなのである。


■ KIKIKIKIKIKI『サカリバ007』

 きたまりを中心に活動する、今、とても期待されているカンパニー“KIKIKIKIKIKI”。03年に京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科在学中のきたまりを中心に活動開始。以後はダンサー個々の特異な身体フォルムから湧き上がる独自の身体言語の世界観を追求・実験的に作品の上演を重ねている。今回上演された『サカリバ』(初演:04年)は、主宰きたまりが06年「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD」ファイナリストにもなったときの作品であり、京都芸術センター主催の「京都ダンスプロダクション」にも選出され、じっくりと熟成されてきた作品だ。“再演”されることが少ない国内のコンテンポラリーダンスシーンでは特異な存在だと言えるかも知れない。

 私がこの『サカリバ』を目にするのはこれで3度目。京都ダンスプロダクションで2度、今回で1度。見るたびに変化していると感じるのは、見ている方の意識の差というものも関係があるのは間違いないだろうが、やはり進化をつづけているのだと思う。空間(奥行き)の使い方や細かな動きには試行錯誤の跡が見られるし、音楽に関しては「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD」以降、G(カマジー)によって大きく生まれ変わっている。劇場やその日の観客によって変わる印象というのもあるだろう。変わらないのは、女4人が見せた濃密な世界観だ。
 

 
                                  撮影:野田知明

 冒頭、無音の舞台上には薄闇の中に何かがうごめいている。徐々に見えはじめると、それが白い衣装の(寝具のような薄いもの)女たちが互いに身体を重ね合わせるようにしているのがわかる。それらがゆっくりと花びらが開くように、しかしその花びらの1枚1枚はそれぞれがヨジレるような微妙な開花を見せるのだ。ふんわりと素直に咲きほころぶ花ではなく、艶めかしく焦らしながら咲いていく月下美人。

 夜に咲き始め、朝にはしぼんでしまう一夜限りの花・月下美人は、雌しべに他個体の花の花粉による受粉が起きなければ散ってしまう花である。女もまた、そういった面を持っているのかも知れない。タネを受け取ること=生存競争に打ち勝つ熾烈なレースであると捉えるならば、女たちは互いが争うように自分の女らしさを誇示するのか。『サカリバ』を見ていると、ふとそんなことを感じてしまう。ベッドの下で絶叫する女たち、ベッドの上でくりかえされる激しい上下運動。チュパチュパと音をたてて宙に放たれるキス……。ベッドを中心に展開する女たちの饗宴は、まったく違う身体個性を持つ4人の女たちのそれぞれの“盛り”を見せるものでもあるだろう。きゃしゃな体つき、ポッテリとした肉感、キレのある動きからにじむ艶、強靭さの中の儚さ…。散ることを予感しながら進んでいく女たちの熱狂的なレースは、終わりのときが透けて見えるようで悲しい。

 ユーモラスととらえるべきか、自虐的な客観視といえばよいのか、『サカリバ』では女たちが容赦なく舞台上にさらされていく。絶叫にしても、性行為を思わせるような動きにしてもそうだ。これほどまでに身体をさらすことを求める作品において、それを支えるダンサーのモチベーションはどこにあるのだろうか。ラストシーン、裏返されたベッドに敷き詰められていた花々を乱暴に噛み散らした後に舞台手前に整列した彼女たちは冗談めかしてポーズを取るのだが、そこには清々しさを感じる。“女”“性”“花”。散るものを越えて立つ強さがそこにはある。傷はあるし、苦さもある。それでも“生”は止まらない。ならば、越えていくしかないのだ。『サカリバ』の進化も止まらないだろう。

<< back page 1 2 3 4 5 6 next >>
TOP > dance+ > > 2008年4月号「踊りに行くぜvol.8 SPECIAL IN OSAKA」
Copyright (c) log All Rights Reserved.