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パフォーマー
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会場
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公演日
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密会と密会 |
松岡永子 |
自慢じゃないが、わたしは安部公房の小説「密会」を頭としっぽしか読んでいない(本当に自慢にならない…)。記憶も定かではないが、妻を探すことで居場所を探している、といったことがあったように思う。「密会」主人公の行動はそれにつきるのではないか。 深川通り魔殺人事件と救急車に連れ去られた妻を探して病院・迷宮へと踏み込む小説「密会」をモチーフにした作品の初演は1993年。今回再演にあたり、書き直して「どうしても融合がうまくいかず安部公房の「密会」は全部カットしてしまった」そうだ。 だから今回、白衣の男は出てこない。溶骨症の少女も出てこない。 一番違うのは視点の位置だ。昔は、犯人のすぐそばにいた。今はもう少しだけ高いところにあると思う。 職もなく、金もなく、最後の頼みの綱だった寿司屋からも不採用を言い渡され、世界のすべてから拒絶されたと思った男は包丁で通行人たちを殺傷する。その犯人が主人公。 彼には彼だけに話し掛けてくる声がある。仕事を続けられないように電波を飛ばす黒幕がいる。 そんな話をニヤニヤしながら聞く主婦たちは、なくした日傘の話をしている。お寺にできた新しい慰霊碑の話をしている。通りがかった乳母車の女は、保育園へ子どもを迎えに行く話をしている。 人々の、どこか違和感をはらんだ言動は、けれど日常に近いところに終始する。 彼に道を尋ねる父親と息子は、ぐれてしまった弟の話をする。 彼が話している通りすがりの人々は、みな彼を取り巻く人々なのだ。彼が殺した人たち、傷つけた人たち、その家族、彼自身の家族… けれど彼は自分のしたことを他人事として語る。目を逸らす。それを自分だと認めない。 だから彼はまだ誰でもない。 「ペルシャの市場にて」が聞こえてくる(初演ではこの音楽も幻聴だったっけ?)。これは妻が大好きな音楽なのだ。彼は妻を探している。彼は彼のペルシャを探している。彼の居場所を探している。 初演では、お姫様になった妻が象に乗ってしずしずと現れ、傍の人にむかってあれは自分の妻なのだと言う、そんな幻想を語っていたと思う。 今回の幻想は、平凡な、日常にごく近く思えるものだ。 働いてお金を貯めて結婚して家を建てて。そこで見る妻の寝顔を、自転車の幼児イスで童謡を歌う子どもを、語る。 けれど、これは誰の日常だっただろう? それは誰の妻だっただろう? 思い出とも、希望とも、幻想ともつかない記憶をさまよい疲れた彼は尋ねる。 ——俺は誰だ? ——まだ誰でもないわ。あそこから電話をかけるまでは。 電話で不採用通知を受け取り、この世界にはどこにも居場所などないと思い知り行動を起こすまで。 彼はまだ誰でもない。 電話で不採用を知らされた彼は、通りがかった女に尋ねる。 ——今、あなた、と呼ばなかったか? 幼子を連れた乳母車の女は、いいえと答える。そうだ、彼には妻はいないのだ。はじめからどこにもなかったのだ。 ——じゃあ、ここはペルシャじゃないんだな。 そうして彼は「誰か」になる。 再演にあたって。昔みたいに滅茶苦茶でなくなってつまんない、と観客のひとりに言われたそうだ。 たぶん昔は、主人公と一緒にさまよい、同じ場所から幻想を見ていたから、安部公房の小説世界に近かったのではないだろうか。 被害者や家族など、犯人だけでなく周囲を視野に入れる、そんな位置からの視点をこの十年で持ってしまった。自分も迷路の中にいるとき周囲はよく見えない。ダンジョンをやや俯瞰するから全体がクリアに見渡せる。その分、公房的迷宮世界からは離れてしまった。 全体の構成などは今回の方がすっきりしている。日常を部品に非日常を描き得ていると思う。わけのわからないエネルギー量は初演時の方があったような気がする。 どちらが良い悪いという問題ではないだろう。作家自身のその時が正直に出ているのだと思う。
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