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増幅する幸福感が奈落に堕つ恐怖 |
西尾雅 |
麻原彰晃こと松本智津夫の判決は求刑どおり死刑だったが絶望を禁じえない。多くの犠牲者がもはや救われない悔しさもあるが、裁判所は有罪無罪の判断以前に事件の経過を明らかにする責任がある。そのため当事者の言い分を聞く。たとえ弁解に終始しても加害者の発言には耳を傾ける。不利益な箇所の黙秘権と事件の説明責任は何ら矛盾しない。今回のように加害者の説明放棄が許されるなら裁判の意義は半分もない。 裁判制度は社会の秩序維持に有効かもしれないが真実の追究には限界がある。犯罪者に人は処罰の期待以上に真相の明示を願う。人はなぜ事件に興味を抱くのか。それは事件が欲望の劇的な表現に他ならないからだ。殺人の3大要因といわれる痴情、怨恨、金銭はたしかにモラルを崩壊させる引き金となる。しかし愛情、発奮と言い換えれば社会でも肯定されるべきもの。さらに金銭は資本主義において力そして善である。つまり、憎むべき犯罪と社会的成功の欲望の根は同じなのだ。言いかえれば、社会を害する凶悪犯と例えばビル・ゲイツなど成功した長者は私たち凡夫を中心軸とする両極に過ぎない。どちらも遠くて近い存在、どちらかの側に転ぶ可能性が私たちにもあるからこそ畏怖と共感、あこがれがない交ぜになるのだ。 裁判が事件の真実を必ずしも描き出さないなら、例えば東電OL殺人事件に触発された佐木隆三は緻密な取材を重ねたドキュメタリーで、桐野夏生は小説「グロテスク」で核心に迫る。事件を知りたいと願う内なる声が、想像の翼を羽ばたかせ、真実を突くことはありうる。公式に事実として認定された裁判記録の羅列よりも、虚構による飛躍の方が現実に近いのかもしれない。演劇の想像力も、事件を解き明かす有効な手段となることを大竹野は実証し続ける。自由に時空移動する演劇の特質が、事件を解き明かす跳躍のバネとなる。 上演回終了後の作・演出者と劇場オーナー・福本氏による対談で、簡単な解説がされる。本作はウイングフィールド再演博の一環だが、10年前の初演を全面書き換えたほとんど新作。初演は安部公房の小説「密会」に事件をはめて題名を借りるが、今回その設定は捨てた由(初演時にはくじら企画ではなく前身の犬の事ム所名義。残念ながら初演を私は未見)。映画のように残ることのない1回性の宿命を持つ演劇のため、見逃した人に観劇の機会をとの故・中島陸郎氏の希望から再演博は始まる。はからずも脚本は全面改訂となったが、芝居はキャスティングが異なれば当然印象も変わる。再演を謳う実は新作が、芝居は役者もお客さんも一期一会が身上、劇団ではなくプロデュース公演にこだわるくじら企画にとても似合う。 客席手前の左手に赤の公衆電話、舞台右手奥にバス停とベンチだけのシンプルな装置。電話とペンチは対角をなし、わずかな空間が男の住む社会の狭さを象徴する。男が外とつながるただひとつの線が古い電話。なけなしの小銭から10円玉を投入し、就職面接の結果を聞く男の顔が蒼白になる。板前経験を生かせず、わずか数日で何度もクビになった男が今回も拒まれる。電話線の向こう、男があてにする未来は切断される。受け入れを拒否する社会に男は抗議する。板前がアイデンティティの男が常に持ち歩く柳刃包丁を振りかざして。風車に槍で向かうドンキホーテのように愚かで単純な行為が、罪のない主婦と幼児を死に追いやる。 事件とは日常に生じた亀裂。プレートの微小なズレがいつか地震を引き起こすように、積もった感情が噴火して事件を生む。男と接触する街の人々の淡々とした日常、その静けさが既に事件を予兆し不安をはらんでいる。行方不明の弟を探しに来た兄とその父、幼児連れでもうひとり園児を迎えに行く主婦、料理講習会が趣味の主婦、日傘をなくした主婦、客にストーカーされるホステスとその夫。笑いが散らばる日常ありふれた会話の中に、恐さと不条理がひそむ。例えば中華料理店の出前持ちは、からくも逃れた人質監禁よりも、持ち出せた出前のラーメンにこだわる。突発事件に対応しきれず、日常の規範に縛られる人間の心理がシュールだ。 しだいに本作のモデルが81年に起こった深川通り魔殺人事件で、男が犯人・川俣軍司とわかる。男は小銭しか持ち合わせず、電波に支配されていると意味不明の言葉を口走るが、気弱で憎めない一面も見せる。犯人に関わる人物を登場させ、立体的に浮き彫りにする手法は生々しい。バス停の一角を妻の場所と主張して他人の立ち入りを嫌い、妻の好きな曲に涙する男と川俣が出会う。男は2人の幼児と共に殺された主婦の夫に他ならず、現実にはあり得ない被害者と加害者の現場での出会い、そのフィクションが現実を超えたリアリティで胸に迫る。 前々作「サヨナフ」で、貧乏という矛盾を解消するには革命しかないと唱える永山則夫を慕う4人が、しだいに永山の手で銃殺された被害者だとわかる。革命の夢や正当性が幻想と消え、現実に反転する瞬間がスリリングだった。本作でも、犯人の理想が奈落に転落する瞬間が美しくも残酷に描かれる。かなうはずもないホステスとの結婚、技量と性格悪さを省みない板前就職の夢に男は酔う。彼の耳に聞こえるのは、妻を殺された夫が殺害現場で妻を偲ぶ「ペルシャの市場」。もはや妻は帰らぬ身、そして男が夢を手にすることもない。就職を断わる電話線の向こうで、不安を助長して楽曲はしだいに大きく鳴り響く。幸福の象徴だったメロディは葬送曲と堕し、男を絶望に追いつめる。 大竹野の関心は、たぶん事件の解明にはない。事件の理解より、そうせざるを得なかった犯人の心情に寄り添う。人間である限り、間違いを犯すこともありうる。愚かなのは犯人も私たちも同じ。本作を貫くのは、人間のせつなさへの共感であり「罪を憎んで人を憎まず」の赦しなのだ。
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