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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


04 空腹の技法 その1 坂本公成

<学びの場としての「暑い夏」の成長>

メ:そんな風に自身の学びたいという欲求に応じて、ものや人に出会って行かれたわけですが、その延長に 「京都の暑い夏」 (*4)が発足したように見受けられます。いわば内輪の勉強会から現在のようなワークショップのフェスティバルへと展開してゆくときに、人材や資金面でどんな工夫をされたのでしょうか。


 
  (*4)今年の5月に10周年を迎えた関西最大のワークショップ・フェスティバル。左はそのチラシdesigned by Hajime Shimizu (PriGraphics)「暑い夏」の詳細についてはホームページをご覧ください。→http://www1.neweb.ne.jp/wb/hot-summer/h_s/
 
坂本:サンチャゴのワークショップを、彼がヴィラ九条山に来ていた94年に一度やったんだけど、その参加者の中で、サンチャゴをもう一度呼びたいって言ったらのってくれそうな人に声をかけたというだけなんだけど…。で、のってくれた人が5人くらいいたのね。予算的には僕もお金がなくて、みんな大変そうだったんだけど僕が背負うっていう風にはできなくて、メンバーが一人2万円出すっていうことにして、10万円を元手にしたの。今考えると、そんなお金でよく元手になっているなって思うけど、まあ、Lee's House(*5)があって宿代もかからないようになってたし、それを元手に頼母子講みたいにして。赤が出たら返ってこない、たくさん人が集まって資金が潤沢に戻ってきたら返ってくるっていうことで。
(*5)95年頃、会社を経営する傍ら踊ることを志していたLeeさんという人物が、ダンサーを中心とする人々に開放したご自宅のこと。海外のアーティストのレジデンスとして利用されたほか、各週でダンスの映像を上映するパーティーも開かれた。

メ:その仕組みを考えたのは。

坂本:いちおう僕だけど、まあ、頼母子講ですね。で、ちゃんと出資金も戻ってきて、労力は提供して、ワークショップを受けれてっていう風になったのね。それが「暑い夏」をやり出す前夜の95年。正式に「暑い夏」になったのは96年なんだけど、そういうやり方でいろいろできるよねってことがわかって、一度、国際交流基金に渡航費を出してもらったことはあったけど、最初の3年はそういうやり方でした。
 そのときに、資金を回収できるくらいには人も集まっていたけど、それで難しい部分もあったのね。ワークショップっていうと、どんどん深めていきたいところもあるのに、ぽろぽろとってる人とか、飛び込みみたいに来る人がいて、そうするとなかなか内容として深まっていかない。それを深めていける中身にしていくには、まだ難しい状況だった。少なくとも参加する人の過半数が、ワークショップを最初から受けるっていうことになれば、講師もいろいろ積み重ねていけるから深まっていくんだけど。これがぽろぽろ抜けていく人が多いと、ある方法を研究してて、それを深めて行こうって言うときに、共有できていない人のために、立ち止まって内容をもとのほうに戻さなければならなくて。

メ:そういった状況から、複数の講師を呼んで、参加者が増えて、という状況になっていくには?

坂本:講師が増えたのは、メンバーが5人だったことが大きいと思う。サンチャゴで2年続けてやって、その頃は「ロリータ・プロジェクト」と呼んでいたけど、「暑い夏ワークショップ・フェスティバル」っていうことになったときに、個々のメンバーが、自分の持ってるつながりで、この人を呼びたいあの人を呼びたいって言い出したの。だから、暑い夏を始めて2年ぐらいで結局5人の講師を呼んでいるんだけど、それは個々のネットワークを持っている5人のメンバーがいて、それぞれが人を引っ張ってきたっていうことに過ぎない。

メ:自分の関心を人に共有してもらうため、つまり参加者を増やすために、意識したことはありますか。

坂本:どう意識してたんかな…ちょっと思い出せないな。

メ:コンテンポラリー・ダンスも、ワークショップという形態もまだ少なかったから、体のことに興味がある人が入ってきたのかも。

坂本:それはあると思うね。スタジオに寄りかからずにダンスする人って、当時すごく少なかったと思うし。どんなところから人が来ているかっていう分布の仕方は、今よりもっとバリエーションがあったのかも知れないけど。

メ:実際にフェスティバルとして大きくなったと思ったのはいつなんでしょう。

坂本:明らかに変わったのは4年目から。99年か。5人のうち3人が抜けて、僕が代表で、森裕子さんにお手伝いしてもらう感じになっていて、さらにそこにお手伝いの人が入ってきて。その時には助成金もあらかじめとれてて、初めて半年以上前から講師のブッキングができている状態で。それまではねえ、春先にどたばたどたばたして、やっと講師を決めるみたいな感じだったんだけど、その時以来プログラムを前もって組むことができて、それで内容的にもクオリティが高いというか、こういうワークショップがやりたいっていうことをよりはっきりプログラミングできるようになった年。

メ:同じ時期に始まった「コーチング・プロジェクト」や「クリエイターズ・ミーティング」といったプロジェクトも、「京都の暑い夏」から派生してきたように見受けられるのですが?

坂本:「コーチング・プロジェクト」は芸術センターが発足する2000年にダンスのプログラムを考えて欲しいっていう委託があって実現したもの。そのとき「暑い夏」を5,6年やっている状態で、クリエイションのワークショップもやったりしていたんだけど、やっぱり「暑い夏」でできることって限界があって、1週間か10日くらいのクリエイションのワークショップを提供するってところがせいぜいだったのね。期間的にも資金的にも。それで芸術センターからプログラムの委託を受けたときに、さらに深い…じゃないな。さらに期間を長くとって、ほぼ1年計画くらいで、ダンサーが本当に舞台を創るくらいのプロセスを体験できる場にできないかなって。
 「クリエイターズ・ミーティング」は2001年に始まったんだけど、その当時、ダンサーが集まる場所って言うのはある程度増えてきているなっていう状況になってきていて、異ジャンルのアーティストが一同に会してお互いのやっている活動を知ったり、それにインスパイアされて出てきた表現っていうのをお互いに探ったりできる場がないかっていうのがあって。また、芸術センターの特性っていうことを考えても、演劇ダンスだけじゃなくて、美術があって、音楽はちょっと弱いのかも知れないけど、伝統のプログラムがあったりして、もとからその芸術センターっていう場所が持っている強みを生かせるようなプログラムをと思って始めたんだけど。もうなくなっちゃったけどね。

メ:その頃入ってきた新しいメンバーの中で、若手のダンサーや制作者として、今日独自の活動を展開している人たちがいますね。彼らには、どういう関わり方をしてもらったのですか? 以前、お金とは別のところでギブアンドテイクを考えているとうかがいましたが。

坂本:そういうことかな。金銭的には僕が一括して、赤が出た場合は責任とりますみたいなかたちにして、若手のメンバーは、とにかくワークショップ受けるとか、コーディネートの現場に関わることが何かしら有意義だと思える人。

メ:ある意味インターンシップみたいな。

坂本:まあ、そんな言葉で言うこともできるかも知れないし、そこまで専門性があるかわからないけど、4年目から今に至るまでいろんなダンサーに関わってもらうときに言っているのは、ひとつはいろんな講師からダンスの手法なり、考え方なりを吸収する機会を提供しますよってこと。それって普通のワークショップを受けるという関わり方でも得られることなのかも知れないけれど、オーガナイズに関わる一つのメリットって、作家の人にダイレクトに関わるから、ワークショップでは聞けないような話が聞けるとか、もうちょっと言うと、海外への人的なネットワークができてくるっていうのも魅力の一つかな。あと、当時、今みたいなワークショップとか公演を発表したりするという場が少なかったから、いずれにせよコンテンポラリー・ダンスを続けるなら、多かれ少なかれ自分で場を組織して、発表する場なり学ぶ場なりを作っていくっていうことは、自分の能力として必要なんじゃないかなっていう話はしている。ただ踊っていれば場所が拡がっていくというか、そういうチャンスが極端に少ない状況だったから。自分で場所を作っていける能力っていうのは、サバイバルしていくために必要なのかも知れないよって言っていて。今言ったようなことを、エサじゃないけど(笑)、若いダンサーには言って関わってもらっていたかな。で、徐々に、実際関わってもらうに応じてギャラなども払えるようになってきてっていうのが、4年目以降。


 
  左:第1回「コーチング・プロジェクト」のチラシ 
 


 


 
  左:第1回クリエイターズ・ミーティングのチラシ 右:昨年のコーチング・プロジェクトのチラシふたつともにdesigned by Shimizu Toshihiro
 

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