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22 読解できないもの その1

『大阪・アジア・コンテンポラリーダンス・フェスティバル』Aプログラム
               (2007年2月16〜18日@ArtTheater dB)レポート


                            構成:メガネ、写真家:阿部綾子


 
 
 
まずは人々をダンスから隔てているものについてのたとえ話を一つ。

もう先に、「日本人はあまり表情を変えないように見えるのだけれど、あなたたちはどうやってお互いの顔の表現を理解しているの?」という質問を受けたことがあります。咄嗟に出て来たのは、「顔は読むものでも読まれるものでもなくって、ごにょごにょ…」という、歯切れの悪い答えでした。

「AでないならBである」ということをきちんと説明するのが、言葉で理解を求める際の作法というもの。けれども後で考えてみたら、質問者との間にディスコミュニケーションが(しかも二重に)横たわっていることにまず気づいてもらうのに、悪くない答えだったんじゃあなかろうか。

さておき、察しのいい方はお気づきのとおり、この質問をしたのは西洋人で、それも異文化を理解しようと努力する、わりに良心的な大陸のほうの人でした。けれどもこの問答がしめすように、西洋と東洋の間には、目の前にある身体を「遠さ」、そして魅力的な「謎」とともに認識させる、いわゆる異文化間の溝というやつが横たわっています。実は、同じ様な溝は私自身と"アジア"の他の地域、さらに言えば、私とダンスや、生活の中で出会うさまざまな身体との間をも隔ててもいるのかも…と、最初に大風呂敷を広げる癖を戒めて、「AでないB」について考えを深めてゆくために、この事実に向き合うきっかけとなった"アジア"各地域のダンスについて、ぼちぼちレポートしていきたいと思っています。

出発点として、2月16日から3月4日にかけて、ArtTheater dBで行われている 『大阪・アジア・コンテンポラリーダンス・フェスティバル』のAプログラムの様子をお伝えしたいと思います。このフェスティバルには、 『第3回アジア・ダンス会議』という前哨戦があって、Aプロのジェコ・シオンポさんとBプロのピチェ・クランチェンさんたちと、私は前の週、東京の森下スタジオに缶詰になっていました。その濃〜い1週間の成果については追々整理していきたいと思うのですが、今号では、このフェスティバルに集まった6組のアーティストの作品と人となりについて、レビュー(写真つき)とインタビューでレポートさせていただきます。

2頁目:Rizman Putra[リズマン・プートラ](シンガポール)『ELEGY of A MAN AND His Weapon of Choice / 男の悲歌と彼が手に取る武器』

3頁目:山下残[やました・ざん](日本)『船乗りたち(陸地バージョン)/ The Sailors (on Land)』

4頁目:Jecko Siompo[ジェコ・シオンポ](インドネシア)『UNANUK』

5頁目:Yumi Umiumare+Moira Finucane+Jackie Smith[ゆみ・うみうまれ+モイラ・フィニュケーン+ジャッキー・スミス](オーストラリア)『The Banquet Room / 晩餐室』

6頁目:Kim Won[キム・ウォン](韓国)『Being Involved / そこに関わる』


7頁目:Bプロ-Pichet Klunchun[ピチェ・クランチェン](タイ)大阪滞在制作『Thep-pranon / テーパノン』お知らせ

さて、次ページ以降のインタビュー記事は、先に触れたアジア・ダンス会議の白眉、「私のダンスmy dance」*にインスピレーションを得た、各個人のダンスへのアクセス記録です。動機は、今回ぐんと近づけたと思った、これまで遠かった地域のダンスの体験に、共有可能なかたちを言葉で与えられないかと思ったからです。なので、「あなたのダンスの出発点は?」という質問を一つの切り口に、作品の表現の中で重なり合っている個性と普遍性の間の歩みにアプローチしてはみたのですが、その際より深い部分でのミス/ディスコミュニケーションが明らかに…。

*「私のダンスmy dance」は、『第3回アジア・ダンス会議』で参加ダンサーすべてが行った、自分の作品を振り返りながら言葉と映像でプレゼンテーションし、他の参加者とディスカッションする2時間のセッションです。第2回会議での成果と反省点を踏まえて、今回制作者が打ち出したこのセッションは、他のジャンルでは普通に行われているけどダンスではなかなか難しい、一人の作家の活動を時系列で、さらに複数の視点で見るという体験を与えてくれ、目からうろこの連続でした。記録集が販売されておりますので、 国際演劇協会の事務局通信 をご参照ください。

それは単に筆者の不慣れや無茶なリレー通訳、あるいは言葉そのものの特性に帰せられる問題にとどまらず、同時代の身体表現につきあってゆく上で「そんなもの存在しない」という態度をとることができないような”溝”を指し示しているようにも思えます。例えば上の問いの背景にあった、個人の表現が共同体の身体技術を地として図のように浮かび上がるといったダンス観、さらには普遍性に至る過程を単線的に捉える見方など。これらはそれぞれの応答の中で、心地よく崩れ去ってゆきました。ダンスを見、そして語ることは、体験にかたちを与えるというだけでなく、作品を介したコミュニケーションでは乗越えられる諸々の理解の溝が、はじめからなかったものではないという痕跡を残す作業なのかも知れません。そういったことを考えると、ダンスと記号を並列したBプロの試みも、一層興味深く思われます。この作品は再演が計画されていますので、実現した際には是非お見逃しなく!

最後に、インタビューのもう一つのベースとなったのは、大阪・アジア・コンテンポラリーダンス・フェスティバルの大判フライヤーに記載された、各参加者の「コンテンポラリーダンスをはじめたきっかけ」です。こういった細部にもうかがえる、観客に「近くて遠い」身体へのアクセスを開きたいというDANCE BOXの熱意は、後にアップする 大谷氏(DANCE BOXディレクター)の言葉 からも汲み取っていただきたいと思います。

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