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一瞬の生の煌きを |
栂井理依 |
緑の木々が鬱そうと生い茂る森の中、錆びた茶色い鉄塔がある。ここは、とある外国の戦場。その鉄塔へ、日本軍の駐屯地から逃げ込んできた男たちがいる。彼らは、「戦意高揚」させる慰問のショウに嫌気がさしたコミックメン。そこへ、彼らを追いかけ、脱走兵も逃げ込んできた。そしてどうやら彼らは、ただ日本へ帰るためだけに、この鉄塔に潜伏しているという・・・。 本来、ステージで人を笑わすはずのコミックメンが、戦場という殺伐とした風景にたつ。この「その鉄塔に男たちがいるという」では、まずそのズレた設定の構図が提示される。不謹慎ながらそれだけでも滑稽なのに、このズレた設定の中でのっけから右往左往する男たちを見ていると、いったいこれから何が起こるんだろうと期待してしまう。案の定、そんな緊迫した「非日常」の世界で、些細なことで揉める男たち。大きな争いの中の小さな争い。あのTシャツは俺のだ、水を汲みにいくのは誰か。オマエは仕切りすぎる、ルールなんていやだ、いやそっちこそ協力しろ…。まるで重箱の隅をつつくかのように、細かい言いあいはエスカレートしていく。男たちの「小さな争い」が誇張されるため、観ているものにとっては、戦争という「大きな争い」の存在が薄くなっていく。ズレはどんどん大きくなる。 作者の土田英生氏は、役者が口にして不自然でない台詞を書きたいと、現場で言語センスを鍛える一方、その言葉を、日常生活から抽出した様々な要素を物語へと構築していく手段として、使用してきた。彼のクールな人間洞察と、他者との距離をはかる絶妙のバランス感覚というフィルタにかけられた台詞には、大仰な思想も飾った言葉もない。そのため、台詞を口にする個々の役者たちがリアリティを持って存在すると同時に、痒いところに手が届くような役者同士の呼吸の合ったアンサンブルが生まれるのである。そして、緻密な演技に基づくそのアンサンブルと、他の音楽や舞台美術といった様々な要素がそれぞれ全体の一部として機能し、あるひとつの表現にたどりつくのだ。 パフォーマンスという名の身体表現が巷に溢れている現在、コンテンポラリーなダンスやアートと比較すると、筋書きや台詞など規制の多い演劇は、一見、どうしても不自由なように見える。しかし、だからこそ、私たちが演劇に求めるものは、言葉の力と、表現媒体となって言葉を伝える役者の身体の力とで、構築される、説得力のある虚構の物語ではないだろうか。そして、それにより、自分や人間社会を追求するきっかけを与えられることではないだろうか。土田氏と劇団MONOは、それを提示する独自の方法を知っている数少ない表現団体のひとつと言えるだろう。 物語の終盤、5人は、鉄塔にいるのを発見されてしまう。「殺伐としたところからさ、とにかく遠い存在でいようよ。冬でもキリギリスは歌ってればいいんだよ。所詮そういうもんなんだから。…意地を張るならさ、そういう大きなところで張りたいわな」との言葉通り、やせ我慢を貫き、殺されるのを覚悟して、男たちは最後のショウを始める。ようこそ来たね!お久しぶりだね!コミックメンズショオオオ。 暗転。そして銃声。 いつズレた設定の焦点が合うのか、ひょっとしたら男たちはショウを捨て戦争と向き合うのではないか、と見守っていた私たちは、最後の最後までキリギリスとして歌う彼らに、拍子抜けするものの、どこかほっとする。 ズレた設定というものは、そぐわないものを結びつけることで生まれるが、それは往々にして物語を非現実にしてしまうものだ。しかし、この作品では、そのズレの落差ゆえに、戦争という大舞台で最後まで自分たちらしく行動した、男たちの生の想いが浮き彫りになり、「なさそうでありそうな」物語となる。さっきまでけちな言い争いをしていた普通の男たちが、この状況で誇りを捨てずに動く、という一瞬の生の煌めき。彼らの姿は何の気負いもなく飄々としていて、強く切なく、爽快だ。それは私たちが日常生活でふと感じる人々の煌めきに似ている。そのリアリティは、人間なんてそんなものだという、人間の愚かさや弱さも許す優しい視線と、悲しみも切なさも歓びもある人生への深い共感を呼びおこさずにはいられない。 暗転があけ、灯りがつき、観客たちは「面白かったね、笑ったね」と言いながら席をたつだろう。しかし、そう言いながら、私たちは考えざるをえない。私たちは何を考え、人々とどんな関係を築き、どんな行動をとって毎日を生きているのかと。笑いながら恐れながら死に向っていたコミックメンが、私たちにそう問いかけるのである。
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