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鉄塔の男達のリアルな戦い 橋本敦司
 98年、京都を拠点に活躍する劇団「MONO」が初演した、土田英生作・演出「その鉄塔に男たちはいるという」は第6回OMS戯曲賞大賞を受賞し、今回、OMSプロデュース公演として再演されることとなった。過去の受賞作は初演と異なる演出家、俳優を起用してきたが、今回は「戯曲の素晴らしさが最も生かされる舞台作り」を第一に置き、あえて初演と同じ演出家、俳優を配したそうだ。舞台スタッフに関しては一新され、各部門、一線で活躍するスタッフが脇を固めている。

 舞台は日本ではない何処か。戦時下である。時はあきらかにされていないがどうやら現代(近未来)のようである。登場人物たちは慰問部隊として前線で「戦意高揚」させるショウを披露して回っていたが、この状況に嫌気がさし、一週間後に行われるゲリラ一掃作戦を前に前線からそれほど近くもなく、かといって遠くもない「鉄塔」に逃げ込む…。物語はこの鉄塔に逃げ込んだ5人の男たちの一週間の日々を描いている。

 「もし今、戦争が起きたら」という物語は数多い。それだけに何処かで見たような薄っぺらな作品になりがちなのだが、この作品には確かなリアリティを感じられたし、単純に楽しめた。土田氏の戯曲には「笑い」は欠かせない。が、単に喜劇という枠にもおさまらず、「笑い」をうまく取り入れることで、観客を飽きさせずに、劇世界に引きこむその手法は技巧的で非常に優れている。

 僕らの世代は「戦争」に対してはリアリティをほとんど感じてない。僕らにとってはどこか遠い世界のお話なのだ。戦争の悲惨さや、残酷さを描いた作品に多く接してはいるが、どれも「過去にあったこと」、もっと言えば「フィクション」としてしか認識されていないことがほとんどのような気がする。じゃあなぜこの作品にリアリティを感じるかというと、それはこの劇の登場人物自身が「戦争に対してリアリティを感じていない」からだ。劇中、遠くの方で機関銃の連射音が聞こえてくるシーンでの木暮の「何か、現実感のない音ですねえ」という台詞に顕著である。そして次第に「たいへんなことになっているんだ」とリアリティを感じていく過程がうまく描かれているからである。

 この芝居では戦闘シーンもなければ、血の一滴も流れない。登場人物たちは、まさに現代の若者であり、どこか無気力、のほほんとしていて、ものごとに対してそれほど深刻に考えている様子は見られない。終始、このとぼけた登場人物たちの会話劇が展開されていくのみであるが、この一人一人の登場人物のキャラクターや、5人の関係性の描き方が見事である。「こんな奴いるいる」「こんなやりとりあるある」と観客は心の中で思うはずだ。そんな彼らが今、戦時下にいるのだから、ここで僕たちは、この劇世界にリアリティを感じることとなる。

 先ほど戦闘シーンはないといったが、登場人物たちの「小さな争い」は度々勃発する。争いといっても些細なことで「あのTシャツはもともと僕のものだった、いや違う、僕のだ」とか、「水汲みや見張りは交代で行うルールにしよう、いや、そんな必要はない」だとか実に子供じみた喧嘩であり、見ていておかしい。しかし終盤、いよいよ明日、ゲリラ一掃作戦が行われるという晩に、Tシャツで争っていた木暮と笹倉のこんなやりとりがある。木暮の「…どうして戦争なんですかね」という呟きに対して、笹倉は「人と人がいればそこには争いが起こるんだって。ある立場にたった途端、それに反対する奴は憎くなるわな。Tシャツがさ、どっちのものかわからないように、絶対譲れないんだって(中略)安いTシャツだろ、あれ?そんなものがほしいわけじゃないじゃない。自分のだって認めさせたいだけじゃない」。この「戦争」も、自分たちがしてきた些細な争いと変わらない子供じみたものであるのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう、という非常に素朴な疑問を吐露している。少々ストレート過ぎる台詞のような気もしたが、このシーンに限らず、土田氏はこの作品に対してはあえてストレートな演出に徹したように感じられた。賛否両論あるだろうが、それだけこの作品を多くの人に理解してもらいたい、という思いが強いのかもしれない。

 この作品には「戦争」というテーマとは別に、もうひとつの見方があるような気がした。それは「逃避」である。登場人物が戦争をしたくないために鉄塔に逃げてきた、という設定が僕にはとても興味深かった。MONOの前回公演「なにもしない冬」でもそうだったが、土田戯曲には「無気力で、だらだらと日常を過ごしている、けどなにか漠然とした不安はいつも感じていてイライラしている登場人物」が描かれることが多い。今回の作品でもそうだが、これが現代の青年像をうまく描いている。そして今回、彼らは「逃げ出して」いる。これは戦争に参加したくないから、という理由もあるが、自分たちがやりたいこと(ここではコミックメンズショウというエンターテイメント集団)をやっていきたい、という理由からでもある。しかし彼らからはどうみてもプロ意識のようなものは見受けられない。逃げ出してきたのも、固い決意があってのこと、という感じもしない。(唯一後から逃げてきた城之内には覚悟があったようで、この城之内の登場によって、他の四人の「戦争=自分たちの置かれている状況に対するリアリティの欠如」が、より浮き彫りになっている)。劇中、地図を作るシーンが何度かでてくるのだが、逃げ出してきた駐屯地と、敵のゲリラとの両者から安全な距離にある場所を必死に探そうとしている。事が収まるまで自分たちはじっと身を隠していようというわけだ。そして事が収まったら、多少の罰は受けなくてはならないだろうが、またみんなでショウをやろう、と状況を甘く考えている。

 木暮の「この鉄塔にいれば大丈夫ですよね?」という問いに、城之内は「まあ戻るわけにも進む訳にも行きませんし。ここがぎりぎりの場所というか…開き直ってここにいるしかないですよね」と答えている。僕たち、現代人は避けては通るわけにはいかない何か大きな問題の存在を感じつつも、それに対して深く関わりを持とうとせず、安全圏を求めている。しかしいくら逃げ出しても機関銃の射撃音は聞こえてくる。不安は消えない。そして逃げ出したことに対して、自分たちの想像以上のツケが回ってくることになる。いつのまにか回りはすっかり包囲されて身動きができなくなってしまう…。そんな、「逃避している者たちの不安感」を描いた心理描写が、社会から逃避している僕(?)には妙に迫ってくるものがあった。この芝居のラストシーン。鉄塔を包囲され、仲間たちに銃口を向けられ、いよいよ自分たちは殺されるんだ、と察知した彼らは怯えながら地面に伏せていたのだが、城之内が立ち上がったのをきっかけに、順にあとの四人も立ち上がって、銃口を向ける仲間たちに対して、コミックメンズショウを始める。そして、オープニングの歌とダンスを終えたところで、突然明かりが落ちて、この芝居は幕を閉じる。テーマを「戦争」として見た場合、彼らは最後の最後まで「反戦」の姿勢を貫いた、ということになる。芝居の中でこの姿勢は「キリギリス」「遠い存在でいよう」「やせ我慢をしよう」といった言葉で表現されている。これらの言葉がまさに「戦争」と同時に「逃避」というテーマが浮かびあがらせている。しかし「逃避」し続けていた彼らは立ち上がる。

 上岡 逃げただけなのになあ…こんなのなあ…
 笹倉 大変なことになっちゃったわな。
 城之内 …どうします?このままじっとしています?
      身を任せてなるようになっちゃっいます?
 四人 ん?
 城之内 悔しいじゃないですか…
      黙ってうやむやの内に殺されるなんて悔しいじゃないですか?

 こんなやりとりがあって彼らは立ち上がり、コミックメンズショウを始める。彼らはここで「逃避」を止め、今まで逃避してきた対象に、真正面から「向き合う」こととなる。この芝居が単なる「反戦」を謳ったものであったならば、きっと大変つまらないものになっていたと思う。しかし、登場人物たちには「反戦」などという強い意志など恐らくない。あるのは、ただ、「このまま逃げ続けるだけの人生で本当にいいのか?」という自問だけだ。戦争がどうとかではなく、この芝居の最大のテーマはここにあるのではないだろうか。

  演出についても触れておきたい。まず開演直前、スローテンポの心地よい音楽が流れてくる。観客はいよいよ開演だと、この音楽に聞き入っいてると、突然、大音量の爆発音があり、不意打ちをくらった観客はかなりびっくりしたことだろうと思う。そして会場は暗闇に包まれ芝居が始まる。このあとそれほど劇的な展開もなく淡々とした会話劇が始まるのだが、この最初の爆撃音によって、こののんびりとした、時に笑いもある劇世界にいつまたあの爆撃音が響くのだろう、という緊張感が生まれ、舞台を締めるいい意味での「かまし」になっている。また物語は昼夜交互に展開され、戦時下の森の中という設定ということもあり、夜のシーンで舞台は真っ暗になってしまう場面が度々続くので、こういった演出を嫌う観客もいるかもしれない。しかし懐中電灯を使った演出で、単純に戦場の雰囲気が出るし、昼のとぼけたやりとりに対して、夜の不安感がこみ上げてくるシーンにはやはりこの暗さが必要な気がするので、個人的には特に気にならなかった。

 役者については、皆、素晴らしかったと思う。MONOの役者が客演している他の舞台をあまり観ていないので、役者としての力量、幅の広さについて詳しくはわからないが、土田作品に限っていえば、文句の付け所がない。それは当然、土田氏がMONOの役者が演じることを意識して戯曲を作り上げているからだろう。せっかくのプロデュース公演なので、他のキャスティングで観てみたかった気もするが、「戯曲の素晴らしさが最も生かされる舞台作り」ならば、やはりMONOの役者を置いて他にいないだろう。これはMONOの舞台すべてに言えることだが、物語に中で誰が主役、脇役ということがなく、皆、等しい距離で物語りに関係しているため、役者全員がそれぞれ魅力的に映る。この「作家・演出家と役者とのチームワークの良さ」が観ていてとても心地よい。

 土田氏はMONO以外でも数多くの戯曲を外部へ提供していて、活躍の幅を広げている。現在、最も注目されている劇作家のひとりだ。外部への提供作品ではMONOでは観られないような作風もあり、興味深い。もちろんこれまでのMONOも十分素晴らしいのだが、欲を言えば、だんだんと定着しつつあるMONOに対するイメージをいい意味で裏切ってくれるような作品も観てみたい(個人的にはテーマ性の全くない、ただただくだらない喜劇を観てみたい)。MONOという集団としても、今後、作風の幅が広がっていくことを期待している。 

キーワード
■コメディ ■戦争 ■リアリティ ■戯曲
DATA

同公演評
箱庭のダンス … 浅川夏子
一瞬の生の煌きを … 栂井理依
濃密な劇空間が世界を撃つ … 西尾雅
戦争という不安の中で … 平加屋吉右ヱ門
「その鉄塔に男たちがいるという」 … 松岡永子

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