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パフォーマー
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会場
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公演日
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濃密な劇空間が世界を撃つ |
西尾雅 |
たった4人でも人は争う。昨日の慰問ショウが受けず不満を抱き意気投合して駐屯地を脱出した仲間も、最初の夜で早くも互いを目障りに感じる。人と人がこじれる原因のほとんどは、他人にはどうでもいい理由。争いの種はごくささやかなズレから始まり、思いがけない広がりを見せる。たとえば、眠れない自分の相手をしないことや、照らされた懐中電灯がまぶしいことや、話を真剣に聞かない仲間の態度など。他人なら笑えるささいなズレが喜劇を超え、ときに悲劇を呼ぶ。 舞台は暗転したまま、眠れない吉村(奥村泰彦)が起き上がり、誰にともなく不眠を訴えることで始まる。誕生日を迎えたのに、誰からも祝ってもらえない寂しさを独白する。そのひとり言に起こされた木暮(尾方宣久)と、とりとめない会話が始まり、ついに全員が起きてしまう。いっけん夜のキャンプ風景なので、非常時を強調するリーダー格の上岡(土田英生)の叱責を観客はいぶかしく思う。暗転のまま幕開ける意外性で惹きつけ、緊張とほぐしの緩急でつなぐ。ここがどこで何のために何をしてるといった状況提示をじらせて、謎解きの興味を持たす。急がずディテールを重ねる中で、シチュエーションの説得力を高め、リアリティを獲得する。 作・演出家は京都出身ではないが、会話の運び、間合いに住み慣れた京都の匂いがする。いきなり核心を突かずに、ゆるやかな会話で周囲からじわじわ攻め込む手口は京都人の得意技。同じ関西にありながら、回りくどさを嫌い、ずばり切り込む大阪とはずいぶん違う。さりげないギャグ、シニカルな人間観察にも、表面は雅やかオツにすまし、内心は冷徹な計算働かす京都のしたたかさが生きる。喧嘩しても正面から啖呵を切るは野暮の骨頂、はんなり穏便に構えながら、底を割らないのが京都の誇り。風土が育てる観察が会話を支える。 翌朝、彼らはTシャツをめぐって、またも争う。元の持ち主が誰かその記憶を糾すのだが、真実はどうでもよい。解明によって事態が好転するわけでもない。ただ意地を張り合い、自己主張を曲げない不毛を繰り返す。争うこと、それ自体が目的なのだ。小競り合いは、もたれ合いと表裏一体をなし、慰問ショウのグチという共通の恨みで馴れ合う。コントが受けない不平や座長への不満が次々に口をつく。持ちネタの批判や自慢の末に稽古を始める彼らはのどかに見えるが、現実に目をそむけ不安を押し隠す裏が透ける。突然、彼らに冷や水が浴びせられる。銃を持った兵士が登場し、戦場という現実を突きつける。 けれど、追って来た兵士・城之内(金替康博)はたったひとり、敵でもなく彼らを捕えるべく来たのでもないとわかる。駐屯地からの逃亡に共鳴し、軍を脱走した味方だったのだ。敵の出現と驚かせ、反転してほっとさせるあざやかな手つきで劇を展開する。4人という小集団に、異分子がひとり入ることで世界が広がり、状況がしだいに明らかになる。コップの中で争いを続ける彼らが、外に目をやる。 戦争に巻き込まれた近未来の日本が、兵士を送り込んだ他国の戦場。勝利は近いがゲリラ戦が続く中、駐屯地の慰問に耐えられず逃亡したコント集団の4人が、戦争終結までやり過ごそうと森の中の鉄塔にひそむ。戦意高揚へ迎合する座長に反発したのだが、反戦の意思表示というより、自分のネタが受けない不満や、日頃の待遇の不信が原因のよう。目的も展望もない逃避の行き着く先には、仲間内の争いが待っているだけ。 受けないと不満のコントの出来だってあやしいもの。付近を調査した上岡の地図がとうてい使えないのに、それは似る。伊能忠敬を引き合いにプロでないと弁解する上岡だが、吉村が唯一得意な階段マイムも、素人の城之内のアドリブ以下とわかる。うすうす実力に気づく彼らの鬱屈が、世界を遠ざけ、自分の殻にこもらせる。イヤと思えば、後先考えず脱走に短絡する。「殺されることはない」という保証のない安心感だけを頼りに。 日本という国が、実は彼らとそっくりだったのであり、彼らはその縮図に過ぎない。安易に結んだ条約により他国の紛争に巻き込まれ、戦局の拡大のままずるずるのめりこむ。世論もなしくずしに戦争肯定し、現地では行き過ぎた殺人まで発生する。それは、世界を見渡すことなく、主体性もなく、未来への展望もない、ただ流されるだけのこの国が負うべきツケなのだ。戦争へなびく日本と、戦場であぶれる彼らは、信念も目的もないあやうさだけ抱え漂流する。鉄塔の中ほどに溜まる彼らは、上に登って監視するでもなく、無為に時を過ごす。戦争翼賛でも反戦でもなく、鉄塔の上に立つでもなく地に降りるでもなく、宙ぶらりんのまま。自分から行動を起こさず、すぐに付和雷同し、他人の攻撃には傷つく彼らは、脆弱でいつも中途半端。淋しいから群れる、そんなやさしさはもろさと同じ。他国に寄りかかり、他国の物言いに腰砕ける日本の、あいまいと甘えにそれも似る。 戦闘を恐れ忌避する城之内も、一行と合流した後の展望なく浮遊しているのは同じ。問題は、争いを拒否する彼より、たやすくそれを受け入れる彼以外の順応性と繰り返しにある。座長の支配から離れても、逃げ出した仲間内から、仕切る人間はすぐ現れる。支配者が変わるだけで、あらたな支配が生まれる構図は変わらない。わずかな人数も集まればひとつの社会であり、水汲みや見張りの当番を人はルールとする。ルール化に反発する笹倉(水沼健)も、ルール化しないルールを主張するに他ならない。社会とはルールを決め各人に義務を課すことであり、ルール決定のリーダーシップをめぐり対立や上下関係は必ず生まれる。 反発の材料がひとつなくなっても、あらたな反発材料はすぐに見つかる。相手と原因がどうあれ常にぶつかるのが人間関係。コントのネタ、Tシャツの変遷、水汲みの当番、見張りを立てるか、誰がリーダーか、眠っている人間を起こしたのは誰か。わずか5人の小集団にも派閥が生まれ、2組が水を汲む愚かしさを競う。争うことに慣れ、順応し、繰り返す人の業。争いから逃れたはずの避難先で、また争う姿に絶望とむなしさが立ち昇る。戦況の緊迫に木暮は上岡と組むが、あがくは逆に無駄とする笹倉が抵抗する。優柔不断な吉村は、楽な笹倉に付くが、加勢とはいえず逆にお荷物扱い。仲裁役の城之内は、双方にとって邪魔な存在と化すしかない。 展望のない彼らだが、希望がないわけでもない。仲間内で評価されない吉村の階段マイムを、意外にも城之内は賛美する。才能に恵まれない彼が隠れた努力をし、帰国後のショウへ執着する。才能のあるなしより純粋な情熱こそが、いつか受け入れられるのかもしれない。人はいずれ死ぬ。となれば好きであり続けることが生きる意味なのかもしれない。続けなければ芽を出すことも、花開くこともけっしてないのだから。 知らぬは本人ばかりなり。鉄塔への避難は周知なのに、隠れているつもりの彼ら。これも、彼らの思い込みと現実のギャップの例、役立たずの地図やひとりよがりのネタと共通する。戦争の趨勢が決まった後、彼らは味方軍に包囲される。脱走の時点で彼らは敵以上に憎まれる存在になっていた。争いは原因を糾すことなく、ただ増殖する。終息と見えても残り火は必ず再燃し、暴走した殺意が止まることはない。この戦争も、発端はささいな原因だったのかもしれない。Tシャツの持ち主が誰のものだったのか、入手するのにどんな由来があったのか。争いのレベルに違いはあれ、始まった言い争いと戦争に原因の追求や真相の解明は意味はなさない。狭窄する視野と拡大する争いは、たぶん反比例する。 逃げ道を塞がれた5人は、身内で争う愚かさに気づく。ここに至って、城之内を新メンバーに迎え、全員一丸となる。死を目前に生きる意味を知る。病気になって初めて健康のありがたさに気づくように。文字通り決死の意気込みで望んだ、これが最初で最後のライブ。通し稽古もない、ぶっつけ1回限りの本番。この意気で今まで来れたなら、きっと人生も変わっていただろうに。それが出来ない人間だから、悲喜劇のおかしさと哀しみが生まれる。悲惨で不幸な結末の、それが救い。生まれて初めての充実の中で彼らは逝く。身体を貫くのは銃弾ではなく、ようやく手にした手ごたえなのだ。引き寄せた生きがいが、死と引き換えとは実に皮肉。笑えるほど悲しい結末に言葉をなくす。 才能に乏しい吉村ですら、日本でのライブという見果てぬ夢を見る。自分の愚かしさを知る時は、既に手遅れと運命は決まっている。けれどそれと知るのが、あるいは残された最後の幸福なのだ。暗転で開けた芝居は、死を賭けたラストショウが始まった直後に暗転する。すべてが断ち切られ、無音静寂に包まれて芝居は終演する。死はいつも突然で理不尽そのもの。眠ることも出来ず夢すら見ること困難だった彼らが、望む夢を目指し翔び立つ瞬間に永遠の眠りを得る。 初演は天井の高いAI・HALL、しかも会場中央からずらして鉄塔が設置される。鉄塔が広い空間のセンターをはずし浮き上がることで、彼らだけの孤立した世界が象徴される。その集団内でさらに孤立する個と、対立する人間関係がスリリングに描かれていた。今回は、彼らのこもる鉄塔の中腹部を抜き出し、全体を蔦で覆うタイトでリアルな美術装置で、より濃密に彼らが発散する空気を伝える。わずかな会話のズレや口に出す言葉と本心の差が、絶妙の呼吸で伝わる。積み上げる会話は、伝統職人芸を思わすち密さで、登場人物の気持ちを織り上げる。見えないはずの感情が会場にあふれ、オーロラとなって降り注ぐ。笑いもいつか浄化され、凛と張り詰めた空気の中、まばゆい万華鏡となって世界を映す。舞台は漆黒の闇になろうとも、彼らの輝きは残像のまま、瞼から消えることはない。
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