まるで、物語の冒頭にある「むかしむかしある所に…」のごとき佇まいを見せる散文抄に寄せた言葉を、私は幾度となく吐いてきた。そして、プロダクションノートとしての「散文抄についての散文*」を奇病についての考察として書き飛ばした。
*フカの日記 2005年10月19日
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=69636&pg=20051019
そうしてある終わりに着いた「散文抄」奇病の持つ美の芳香を豊潤に発症さし得た物語、それについてのテクストを、いま一度、ポストプロダクションいわば「散文抄後についての散文」を書かねばならない責を抱いたのは、何も他者からテクストの原稿を依頼されただけの「ただ仕方がなく」という意味合いではない。
しかし、「終わった後に何をいまさら書くべきなのか」という自問自答は、あの散文抄の場面と場面、あらゆる想いの集積が断片として官能に触れてくるたびに、浮かび上がる。ある種の聖域は、美し過ぎるが故に困惑を芽生えさせる。視点は如何様にも用いて倉庫の朽ちた錆や舞う埃のごとくに飛来し、恍惚な発狂に誘われるが、言葉はそこには立ち入れないのだ。
その場(中津の半地下のカフェ、可愛らしい猫がいる場所)で、私はあらゆる文体、構成のテクストの構想をしてみて、依頼主である背の高い凛としたメガネをかけた女性に「ダンスに全く関係なくても良いですか?」と尋ねる。依頼主は少し戸惑ったようだが、承諾した。その後の事は、そのカフェの特徴的な大きな窓から見えた生い茂る緑のエキゾチックな香りに気を取られて憶えていない。
「終わった後に、オマエは、何をいまさら書くべきなのか」
野暮ったい。恋人に捧げるために書き置いた恋文を、成熟した恋の最中に再び開けるような行為。これほど野暮ったい事はない。そうして、あれやこれやと書いてみて、またも多くの書き損じの紙が散乱する。だが、その愛すべき書き損じに、散文抄の有り得べき恍惚とは、全く別の散文抄の恍惚があるのかもしれない。
私は、当初抱いていた考えとは別の妄想に取り憑かれ(恋において妄想は大体にして分裂していく)「未来の廃虚を準備するようなもの」(これは依頼主の言葉だ)を、プロセスの誤りとしての「もしも」を、
描こうとするのだ。書き損じの手紙が散乱する様は、愁いよりも、むしろ優雅に感じるべきなのだ。
ああ、しかし、それでもなぜに男はこれほどの野暮をしてしまうのだろうか?