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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


2008年6月号 京都の暑い夏2008ドキュメント

スペシャル・ダイアローグ 砂連尾理×上田假奈代「世界とからだのつながりについて」



                                       構成:メガネ
                                      写真:森本万紀子
                                     撮影記録:神澤真理



 
  ヴィデオ・サロン 〜ランチタイム編4月30日(水)〜5月6日(火・祝) 12:30〜13:30(5/3(土・祝)は休み)*最終日5/6(火・祝)〈スペシャルダイアローグ〉11:30〜13:30(ゲスト:砂連尾理ほか)[概要]  恒例の選りすぐりダンス映像鑑賞会。今年は「体との対話から広がる世界」をテーマに、ランチタイムにお届けします。お昼を持ち込むもよし。畳に寝転んでみるもよし。最終回は「私の体」から展開するスペシャルダイアローグを開催。
 


 
   ダンスを「見る」ことは、もっとアクティブでクリエイティブな行為であり得るんじゃないか?  そういった関心を展開してきた手探り企画のビデオサロン。今年も最終日は、見ることを最高に刺激してくれる作品をつくってきたアーティスト、砂連尾理さんと詩人の上田假奈代さんをゲストに迎えました。一方的に話すことにはあまり興味がないという砂連尾さんと上田さんに、公開トークでの言葉や体のあり方をもうちょっと柔軟なものにと相談したところ、京都芸術センターの大広間のゆったりしたスペースや屏風をフルに活かし、30人近いお客さんとともにするエキサイティングな場をつくってくださいました。記録にあたり、アーティストの対話をメインに再構成しましたが、「見る」ことを「解る」こととは別の回路に逸脱させてゆくお二人のお話しぶりとともに、受け手への投げかけと、それを受けた参加者の心と体の←が転がってゆく様子を想像しながら読んでいただければ幸いです。
 
まずは15分ほど砂連尾さんの作品映像を見せてもらった後、いつもは見せる立場にある砂連尾さんと上田さんの「見る」経験についての対話を聞いてもらうことからトークは始まりました。


 
 
 
 先日、ピナ・バウシュの『フルムーン』を見に行ったんですけれど、ご覧になった方はいかがでしたか? 僕自身は1部でうーんと思い、2部を見終わってまあ良かったかな、くらいの感想だったんですが、見終わった後で何人かと話をして、すごく良かったというと言う人や、そうでもなかったと言う人もいて、彼らとしゃべったことがすごく面白かったんですよ。それで、舞台って演ってる人と見る僕とだけの関係かなと思っていたんだけど、そうじゃないなと。例えば今、僕と假奈代ちゃんとの一対一の対話をみんなが見ていて、それは一対多に近い関係だと思うんですが、こことか舞台の上で起こっていることに対して、個々の受け手の間で動いている何かがあると思うんですよね。その時に、今までは舞台を見るときにすごく受け身だった、つまり、刺激を与えられたいという姿勢で舞台に対していたとも気づいたんです。もちろん、料理屋にはおいしいものを食べさせてもらうために行くように、それは当たり前の姿勢なんだけれど、この体験を通して、僕自身が見ることに主体的になっていかなきゃと思ったんです。

 同じようなことは、私も最近意識するようになっています。例えば、みなさんは映画をどこで見ますか? 最近はDVDを借りて来て個人で見るということがふつうになってきていると思うんですけれど、私は映画館で見るのが好きなんです。そこでは同じスクリーンを何十人何百人で見ていて、違うところで笑ったり泣いたり、お菓子を食べる人がいたり、それに対して「うるさい!」と言う人がいたりする。そんな風に、映画と私との関係に、そこでいろんな見方をしている人たちの存在が入り込んでくるのが好きなんだなと思うんです。
 別の例を出すと、私は今、大阪の新世界を拠点にしていて、日雇い労働者やホームレスの人が多い釜ヶ崎の地域を案内するツアーを、そこで暮らしてきたおじいさんを案内にたててやっているんですが、ツアーの後で「じゃあ、さようなら」じゃなくて、少しでも残って一緒に話し合う場所をつくりましょうということを勧めているんです。そうすると、学生から社会人までいろんな人が、自主的だったり先生に連れられて来たりしている中で、「もう二度と来たくない」とか、「なんでこんな所に来なきゃならないんだ」と言われることもあるし、逆に「日本にこういう所があるなんて知りませんでした」とか、「自分に何かできることはないのか?」と言われることもある。そういった、違う人との違う意見を交換し合う中で、何か腑に落ちるとか、知ることで幅が生まれるとかいうことがあるってことには気づいています。批判的なこととか自分と違う意見を聞くとびくっとすることもあるけれど、そういった意見を聞くことによって自分の気持ちがはっきりするし、はっきりするって大事なこと。参加者は受け身なんだけど、話したり、聞いたり、反応したりっていうやりとりの中で、より“上手な受け身”へと近づきうるんじゃないかと。


 
  上田さんが運営する cocoroom というNPOが、2003年から活動を始めた経緯、いろんな人の人生を聞き取って集める活動の取り組みの記録と方法については、著書 『こころのたねとして』 をご参照ください。
 
 さっき話したこともあって、刺激があるからいい/ないから悪いという舞台の活用法をもう少しどうにかできないかなあと思っていて、僕は今日来てくれた人に聞いてみたいことがあるんです。僕や舞台をやる人間は、だいたい見てくれた人の中に何がしかを起こしたいと思って作品をつくっているんだけれど、お客さんのほうでは、そこでどういう作業をしようと思って来てくれているのかなあって。

 はいっ。(と手をあげる)私、二十歳過ぎに考えたことがあって。演劇やダンスを見るのが好きで通っていたんですが、その時、舞台を見ることだけを目標にするのではなく、私がチラシをめくり、服を着替え、玄関を出るあたりからもうそれは始まっていると思うことにしたんです。そうすると、劇場までの道のりで、周りの様子や景色を見るこの動作が舞台につながっていって、それは舞台の後も、砂連尾さんがさっき言ったみたいに、誰かとしゃべったりご飯を食べたりすることも含めて、その日眠るまで続くの。

 見ることに向けた準備。さらに見終わった後も、それが続くってことですね。他には何か意識されている事ってありますか?

参加者その1 劇場の前に公園があったりすると、入ってゆく感じがするので、会場に行くまでが良かったりすると行きたいとなるってことはありますね。

 ロケーションのいい劇場は得ですよね(笑)。


 
 
 
 ちょっと飛んで、2年くらいやっている合気道の話なんですが、合気道で一番最初に習うのが「受け身」なんですよ。後ろ受け身と前受け身があって、後ろ受け身っていうのは技をかけられてこう(後ろにでんぐりがえり)。前受け身っていうのはこう(でんぐりがえり)。これがないと、合気道っていうのは練習ができないの。

 そうですよね。技をかけられてもうまく受けられないと、そのたびに怪我します。

 そう。見るっていうことについても、この「受け身」を練習しなきゃいけないんじゃないかって、最近僕は思うようになっているんです。

 ほう。じゃあちょっと、合気道のほうの「受け身」がどんなもんか、やってみましょうか。

 やってみましょうか? やってみようっていう人はどうぞご一緒に。やりたくない人は後ろのほうに避難して(笑)。


 


 
 
 
砂連尾さんのデモンストレーションとともに、あちらこちらでごろんごろん。右は技をかけられる小鹿ゆかり[暑い夏事務局制作]


 僕は合気道を練習しに行ったときに言われたんですよね。「人生、転ぶことのほうが多いから、転ぶ練習もしなさいよ」って。今、転ぶことを避ける人たちが多いと思うし、舞台でもこけることを避ける。どうでしょう? 僕は最近、これは転んだほうが勝ちだなあって思ってて。もう、「つまんない舞台をやる!」って(笑)。
 さて、こういう練習がどういうときに役立つかというと、技を掛けあうときにやるんです。今日はそこに合気道の経験者がいるのでちょっとやってみると、こんな感じ(上記写真右)。さっきの劇場での関係も同じなんじゃないかって話に戻すと、この手首掴んで技をかけるほうが舞台を演るほうの人、受けるほうが見る人ですね。武道だとルールもあり、こういった練習の方法もあるけれど、舞台を見る「受け身」の練習っていうのは、どういう風にしていったらいいのかなって考えているんです。
 手がかりになるかどうかわからないけれど、とりあえず思い出したのは、假奈代ちゃんの「トイレ連れ込み朗読」での体験。彼女は詩人なんだけれど、書くだけじゃなく読む人で、その読むっていう行為を「トイレ連れ込み朗読」っていうパフォーマンスにしたんですよ。僕もやったとがあるんだけれど、いかがでしょう、ここでどなたかやってみませんか?

 面白いですねえ。


 
 
 
目のあった参加者を誘っての屏風の裏へ「連れ込み朗読」!


 そもそも、こういったことをやるようになったのは?

 1990年代の後半から、最初は詩の朗読をしたくてイベントとかをやってみたんだけど、お客さんに「どうやって聞いたらいいかわからない」って言われて。まずは詩の朗読を親しいものにしてもらわないことにはと、継続的なワークショップやイベントを制作する中で編み出した方法なんです。そのとき、みんなに知ってもらわなくちゃならないんだけど、「詩は、言葉は、一対一やんか」という気持ちもあって、時間がかかるけれど一対一を増やしていってたくさんの人にならないかと考えた。その一対一を形としてわかりやすく見せる演出効果として、トイレっていう空間を思いついたんです。トイレであれば、ふだん一人で入るところに二人で入るから、それだけで興奮して印象深いものになる。それと、トイレはあらゆるところにあるから、いろんな場所が劇場になる。「これは一石二鳥!」と始めて、100人以上越えて、しばらくやっていませんでした。っていうのが、嫌がらせ的に(笑)やっていたのに「連れ込んでください」って言う人が増えてきて、そうするとなんかいやになっちゃって。

参加者その2 そんな、危なないんかな。ハプニングでしょ、通行人を巻き込む。

 実際は、今日みたいなイベントとか、予め約束していたり依頼があったりでやっていたので、通行人にいきなりっていうのは少なかったです。

参加者その2 体験する。原点に返るいい試みです。今、現代人は原点に返ってゆくということを一番見失っているんじゃないかと。政治も野球も何もかも。人間というのは、何年かおきに原点を必ず失うんですね。

 原点というのも、どこまで遡るかというのはそれぞれあるかと思うんですが、私は性格が極端なので、戻れるところまで戻ってしまうんですね。さらに、なんでこうして生きてこういうことをやっているのかっていうところまで遡って、そして「みんな死ぬよな」って思うんですよね。「その等しさの前でどうするよ?」ってところから始めようといつも思うんですが。
 
 
 今体験された方は、どんな感じだったのかな。自分の中で何か変わったこととかありました?

連れ込み朗読体験者 非常に贅沢な時間を過ごさせていただきました。詩人というのはイメージを紡ぐ。言葉を深く感じた気がします。

 なるほど。僕自身の体験を思い出すと、まず密室のドキドキ感があったんですね。ここだとちょっと広いけど、トイレは密室だし、至近距離で、当然戸惑いもある。そのドキドキ感の中で、単純に言うと「こういう瞬間が好きだな」と思ったんです。ある意味クリエイティブにこの人に向き合っているという感じ。もちろん、假奈代ちゃんに引っぱられているんだけれど、引っ張られることで僕自身がこの人と向き合ってゆくということがあった。だから僕はそういう瞬間にもっともっと出会いたくて、自分がつくる舞台でとか、それから例えばここにこうしている人たちともそういう関係を結びたいんだなと思う。最近、障害者の人とダンスをつくった 「循環プロジェクト」 でも、そういったことをリハーサルで続けていた感じがするね。假奈代ちゃんの中では、どうつながっているの?

 自分のことを考えると、実はすごい引っ込み思案で、20代後半にして赤面症だったり(笑)。そんな私だけど、「トイレ連れ込み朗読」を始めて、イベントやワークショップをつくる中で、人と関わることを訓練できてきたかなあとは思います。それはふだんでも、自分の人生に対し、他者に対し、主体的に踏み出せて、かつ何かされたときも主体的に受けとめられるようにってつながっていってるかな。
 例えばちょうど昨日のことなんですが、私のやっているお店の前が、家がない人とか、仕事がない人とかがふつうに行き交っているような商店街なんです。そこに犬を撫でようと足を向けたちょうどそばに、おばさんがへたりこんで座っていた。かつての私だったら話しかけなかったと思うんだけれど、歩けそうなものなら手を貸して、買い物袋も持ってあげるから、と声をかけたんですね。で、少し一緒に歩いた。結局、おばさんそれでも辛かったらしくって、あと50メートルだっていうのにまた座り込んで立ち上がれなくなっちゃったから、そこでさよならしたんですが。後でそれを見ていた人に「変な人に関わったらあかんで」って怒られたりもして、釜ヶ崎っていうエリアの中にこういうかたちで線引きがあるんだなとも思ったんですが、私は自分のとった行動が、善い悪いじゃなく、その場の判断としてよかったなあって。

 なぜ「その人」に関わろうと思えたのかな。例えば僕が今ここで、近くに座っているこの人にこう肩を押したりしてはたらきかけるとしたら、それに対して彼女に求めるものがあるわけですよね。假奈代ちゃんがその人に声をかけたいと思えたのは、なんで? さっきの誰かを連れ込むのもそうだけれど、假奈代ちゃんの中で無意識に選んでいるんじゃないかと思うんだけれど。

 確かに、道の端っこにおばさんが座りこんでいるとき、釜ヶ崎にはそんな人いっぱいいるので、声をかけようかかけまいかは悩むところ。でも、しんどくて倒れているのか酔っぱらって倒れているのかなんかはわかるようにもなってきていて、体の感じを見て、とりあえず聞いてみて、おばさんが立ち上がってちょっとでも歩けそうなら付き添おうと。たぶん、関わるのは変化が起こる人。だから100メートルはつきあったけれど、もう一回座り込んだときは、「もう私はつきあえません」となった。人と人の間のそういったダイナミズムが面白いし、できるのであれば、私自身も変化したいと思っているんでしょうね。

 僕は、この瞬間に何かを感じられたり、この瞬間にこの人の中に起こった変化がどこかに移ったりするような関係を結びたいと思うから、ダンスの舞台やこういったワークショップをやっているんだろうと思う。少なくとも、強いカリスマのような舞台人になろうとしているんじゃあないだろう。その瞬間には、どれだけ自覚と責任を持ち合った関係を結んでゆけるかということに興味があるんです。だから、この場においても、話す話されるみたいな関係がまだあって、それがなんだか気持ち悪いと思ったりもしている。そういうわけなので、これから僕はみなさんと握手をしに行きたいと思います(笑)。假奈代ちゃんも一緒に行こうか。

 うん。行く、行く。私は握手とおしゃべりを。

 

 
 

 
 

 
 なんか、一対集団で話す話されるの関係で伝わる効率の良さと、こうやって一人一人の関係での伝わるものって違いますよね。僕はこうして一人一人に触れたときに、言葉で交わす以上のものが見えてくる。でもこれをやることによって、一緒に踊れるとか何かを共有できるとか、これっぽっちも思ってないんですよ。逆に、すごく切ないんだなあって。絶対わからないから。面白いけど絶対わからない。わからないってことを知ってゆく、抱え続けてゆくってことが大事。初めに映像を見てもらったけど、そこで一緒に活動してきた寺田さんも、そもそもなぜ彼女とやろうと思ったかというと、最もわからない人だと思ったから。バレエの訓練をずっとやって来た超絶的なテクニックを持った人で、身体的なボキャブラリーの上で僕から最も遠い。そういった、最もわからないものとつきあってゆくことが世界を知ってゆくことだなあと思って、 「じゃれみさ」というユニットをやってきた。でも最近は、「わからないもの」って、みんななんだなあって思うようになったんです。それで、わからないものに対して主体的につきあってゆこうよという風に姿勢が少し変わってきたし、「受け身」という技術が大事だなとも思うようになったのは、そうして関わってゆく中でのことなんです。

 砂連尾さんにとっては、「循環プロジェクト」みたいな、ままならない体をお持ちの方と作品をつくってゆくことも、わからなさを積極的に共有してゆくことですよね。私のわからなさはなんだろう…。今日は、京都芸術センターに足を運ぶ、ある種の“解りやすさ”がありますね。やっぱりある関心、人生観があってここにいらっしゃれると思うから。それに対して、今私が釜ヶ崎に構えている店に入ってくる方、あるいは入れなくて通り過ぎてゆく方にはかなり追いつめられた方が多くて、その人たちが何かのきっかけでふと入って来たときに、どういう体で向き合うのかっていうのは切実ですね。

 僕の興味は、やっぱり「受け入れる」になるかな。合気道で「天地投げ」っていう技があるんですよ。これを僕がいいなって思うお師匠さんと練習した時に、「投げたらあかん。もっと受け入れ、受け入れ」って言われたんです。ふつう、手を掴まれたら即、投げるほうに動くじゃない。それを、「待って、待って、ここまで受け入れてから投げたほうがきちっと技がかかる」って言うの。それで受け入れるって、命がけのことだなと思って。
 だけどそれにだって絶対のルールがあるわけじゃない。「循環プロジェクト」のときも、一人一人で違った。例えばリハーサルの中で、車椅子と義足の人が向かい合って走って来てぶつかる直前で停まるとかって、結構ハードなことをさせたりしたんだけど、生まれたときから障害のある人のほうが、ある意味で身を殺ぐというか、身を捨てる感じになるのが速かったというか…。受け入れ方ってのも、一概にはわからない。それで、彼らにとって、生まれたときからいろんなことができないという状態がたくさんあって、それが日常化された身体から見えて来たものだとか、「相手を受け入れるって、向き合うってどういうことなの?」っていう問いだとかを、彼らを通して見ている人に伝えたいなと思った。だから今、こうやってみんなに触れて廻っても、どこまで相手を受け入れるかっていう問いと同時に、絶対解り合えないっていう絶望感があって、それがないと受け入れることもできないと思ってる。

 私にとっても、言葉を発することの始まりは聴くことにあって、話すことの数分前に始まってるその聴くことに、どれだけ集中できるかにかかっている。問題を抱えた人がお店に来たときでも、どう聴くかってのが大事。でも24時間集中してるわけにもいかないし、いくつも案件が重なってるときに、人生辛いという話をされると、「辛いのはこっちだ!」と言いたくもなる(笑)。そんな時は、まずは自分を受け入れてあげることも大事かな。自分はイライラして焦っているということを立ち位置として認めて、そこから始めて冷たくあしらうのもあり、けんかふっかけるのもあり、大声で「出てけ」って言うのもあり。そうしても、また何か偶然で出会ったときに出会い直せばいいのであって、その出会い直せることも重要と思っておくことが、向き合うときに必要な姿勢かなとは思っている。

 假奈代ちゃんにとっての言葉、僕が合気道するときの手首は、それがないと相手と関われないもの。そこには解り合えないという切なさと絶望感があって、でもそのゆえにアプローチしてゆくっていうことにもなる。そういったものを含んだ関係を通して応答し合えることがあったときに、もとの関係が逆転したり変化したりして、その場が有機的にどんどん変わってゆくと思うし、僕は舞台やワークショップでそういう場をつくってゆきたいなと思っているんだろうね。

参加者その3 今日の話は、舞台での観客との関係と、こういった場や日常での人間関係の話がつながっているんだと思う。私の経験を話すと、いいとか悪いとかは作品の中で起こっていることに対して思うんじゃなくて、それが自分の中に、生活や人生の中でその後もリファレンスされるようなイメージをくれたかどうか。例えばピナ・バウシュの岩の上にダンサーが集まった場面とか、このフェスティバルでやった室伏鴻さんがホールを出ていった瞬間とか、友人のアーティストのガリバーの作品とかのイメージは残っていて、何かの拍子に思い出されて、これからも自分の人生を豊かにしてくれると思います。

参加者その4 逆に、悪いイメージが残ってしまったりすることはありますか?

参加者その3 悪いというよりつまらないんであって、そういう場合は何も残らない(笑)。どういうイメージや動きが残るかは、予めわからないこと。それがいつ起こるのかは人それぞれだろうし、空っぽのステージでも何かが残ることがある。なぜかって考えると面白いね。でもさっき上田さんが、話す前に聴くことが大事と言ったけど、聴くとか見るってことは受け身に終わるんじゃなくて、心を動かされたことを何かに返すことにつながっている。私はつくる人ではないけど、人がつくったものに突っ込みを入れるというか、答えるのが楽しい。自分の中のレファレンスが、人間関係の中でもチェーンになってゆくと、すごく楽しい。

 そのとき、自分が求めている基準のようなものって、わかります? 僕のほうは、ちょっと変態っぽく聞こえるかも知れないけど、さっき言ったみたいにどきどきする瞬間が好きで、なんかそういう基準みたいな部分を交換できれば楽しみ方も広がるのかな、と。

 私の変態度はねえ(笑)。未来にイメージを持てるっていうのも大事だし、これまで生きてきた経験が舞台の上に具現化されたように感じると、勝手に腑に落ちて気持ちいいかな。何もない舞台ってのも興味深いですね。私もアイホールで砂連尾さんの作品を見たときは、幕が開いた瞬間「この作品は素晴らしい!」と思ったんです(笑)。舞台上に坂がしつらえられていたんだけれど、その強烈なイメージが、今の社会が置かれている状況や心の中に持っているしんどさと重なったから。もちろんダンスも良かったんだけれど、そういった空間を選択している砂連尾さんが信頼できるなと思った。

 自分がふだん生きている状況や社会が具現化されていると見たのは、釜ヶ崎で見たことも含めて、假奈代ちゃんが一生懸命生きていることそのものが、何かを見ていく姿勢につながっているからかもね。

 そうかも。今言ったような考え方をすると、今私たちがいるこの空間も十分に面白い。かつて子供たちが躾の練習をしたというこの部屋に、みんなでこうやって入って、「受け身」をしたことなんかもね(笑)。こうして反応し合えるものはあちこちにあって、自分の中でその楽しみ方を増やしていくことで、人生の豊かさは変わるかもしれない。そういう意味では劇場も同じ可能性を持っていますよね。それは心の余裕がないとできないことで、どんなにしんどい状況だろうと、遊びの部分を含めて何かを具現化することが、舞台作品だったりアートだったりするのかな。またそれを受けることで、腑に落ちたり、エネルギーをもらったりして、それに応答することを、どんな風に続けてゆけるんでしょうね。


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