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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


2008年6月号 京都の暑い夏2008ドキュメント



                 ダニエル・ユン インタビュー

                                   インタビュアー:古後奈緒子
                                   翻訳:大藪もも



 
  ダニエル・ユン (中国/香港)香港コンテンポラリー・ダンス界の鬼才。ウィットとアイロニーに満ちたダンスが特徴の彼は、ダンスする「身体」を現代の社会、科学、芸術の文脈の中に批評的に位置づけて行く。大学で西洋絵画と中国音楽を専攻。'00年リヨン・ダンス・ビエンナーレ、ビッグ・トリノといった著名なフェスティバルに招聘され一躍注目を浴びる。'02年、'05年と「香港芸術節」の委託を受け、高嶺格、ムギ・ヨノ(インドネシア)、藤本隆行(dumb type)といったアジアのアーティスト達とのコラボレーション作品を発表し、話題を呼ぶ。
 


 ワークショップ(以下、WS)の参加者に伝えたかったことは何ですか?

ユン 僕のクラスの参加者にはちょっと新しいことに挑戦してもらおうと思ったんだ。C-1のクラスでやったことは、参加者の人たちも今までやったことのないようなことなんじゃないかと思う。っていうのは、前にクリエーターズ・ミーティングやワークショップ・フェスティバルに来たことがあるから思うんだけど、京都芸術センターは今回みたいなプログラムをよくやっているでしょう? だから、たぶん大抵の参加者がすでにヨーロッパのコンテンポラリーダンスのいろんなスタイルとかテクニックとか、即興なんかをやったことがあるんじゃないかな。で、アジアから来る者は、それらと違ったものを与えることができるなって考えたわけ。僕の場合はそれが東洋医学の理論になる。これがまた、最近の自分の関心とマッチしていたし、参加者とシェアすることができれば僕も元気づけられる。それで、今追求している事柄を今回のクリエイションのクラスに持ち込んで、参加者と一緒に作っていこうって決めたんだ。これって、さっき言ったように新しくて基礎的なことだからこそ、参加者にとってはついて来るのが難しいかもしれないんだ。彼らはゼロから始めるわけだし、しかも、わずかな期間で大きな効果や成果を当て込むことはできないからね。いわゆる“基礎”って、すごく退屈ってことにもなりがちだよ。例えば、基本ステップの反復練習は時間がかかるのに、並外れたものや複雑な振付を生み出すわけでもないみたいにね。そのプロセスでは、参加者の忍耐力が求められる。でも結局、彼らがWSの中で学ぶことは、僕たちが一緒に学んでいる間だけ役に立つものじゃあない。今回学んだことを、彼らはもっと先で思い出すかも知れない。そしたら、それをどんなダンスにも応用することができるんだよ。つまり、僕達が取り組んでいるのは、ただ身体の動きだけじゃなくて理論の上でも“新しいこと”になるね。それは身体だけじゃなく精神のためでもあるんだから。

参加者から何か興味深いフィードバックはありましたか?

ユン 今言ったように、このWSでやることが基礎的で退屈になりかねないものだから、参加者が耐え切れなくなるんじゃないかって、ほんとに心配してたんだ。でもね、みんなとってもすばらしかったよ。海外の人がよく言うみたいに、「日本人の忍耐力はすごい」よね。僕のクラスは1日の中でも後半にあるから、中にはハードなWSをこなした後でやってくる人もいたのに、それでも彼らはとってもよく集中していたし、その集中力がWSを支える強い力を生み出していたよ。僕ね、みんなが真剣に集中しているところを眺めるのが好きなんだ。時々、そういった深く集中した状態の経験から、本当に興味深いフィードバックを返してくれた。それは太極拳や、型の決まったエクササイズをしているときにも似て、とても長い時間身体を集中した状態においているとき、身体に焦点をあててるだけじゃなくて、意識の深〜いところまで入り込んで行って、「夢をみているか、空間に溶け込んでしまうような気がした」って言っていたよ。それって身体にとっていい経験だと思う。だから僕は、彼らが将来もこの経験を覚えていられればいいなって、そして、できればその記憶がダンスの強い基盤になってくれればいいなって本当に願ってるよ。

“東洋医学”というテーマについて考えるようになったきっかけは?

ユン 多くの中国人のダンサーたち、特に常に世界中で作品を発表しているような人たちは、「自分は中国人なのか?」っていう疑問に常に直面していると思う。僕はこの問いを、観客やフェスティバルが僕(のダンス)に対して抱く期待に突きつけようとしてきた。僕の経験から言えば、いろんなところで公演に呼ばれて紹介されるとき、何かレッテルのようなものを貼られるんだ。彼らは、中国や香港出身だとかっていう中国的なバックグラウンドを持ったダンサーを呼びたい。だからおかしなことに、僕がまだ中国舞踊を学んでいなかった頃、本当に自分のやり方と解釈で創作した時、それがマルチメディアや非常に現代的な作品であっても、「中国舞踊を学んでいるの? あなたの動きはゆったりとしていて太極拳みたいだわ」なんて言われたもんだよ。また、動きが高いジャンプや強いキックみたいにエネルギッシュだと、「中国武術みたい!」ってなるだろうしね。そんな時僕は、「これって血によるもの? 何か生まれながらのもの?」とか、「これって観る人が中国人の身体に対してレッテルを貼っているだけなのかな? だから僕が何をしようと、中国的解釈っていうレッテルを貼られるわけ?」って不思議だったんだ。僕は、ダンス・パフォーマンスっていうのはダンサーと観客との間ではたらく化学反応のようなものだと考えてる。だから、もし観客がそういう期待をしているんなら、その関係の中に飛び込まない手はない。それで、もし僕が極めて中国的なものを独自の解釈でつくって見せたら観客にどんな風に受けとられるか、試して見みようじゃないかって自分に言い聞かせたんだ。
 とはいうものの、さっき言ったように僕は、中国舞踊の素養がない。ってことは、中国舞踊の伝統やメソッドに向かったりはしないほうがいいでしょ。そんなことしたら、中国人ダンサーになりすまそうとしてることになっちゃうからね。僕はそれより、中国文化に根ざしていて独特の身体観を生み出している、強くて基本的な何かを身につけようと考えたんだ。でも、決して身体だけを見てるわけじゃないよ。中国舞踊を見ると、ダンサーたちは中国舞踊のテクニックはあるんだけれど、あくまでもテクニックだけ。それでは文化の根っこの部分に満足にたどり着けやしない。身体と心の両方、さらには哲学的な認識にさえ関るような特別なテーマを選びたかった。東洋医学はそういうものをもっていると思う。身体に関わるものでありながら、身体だけを扱うのではないからね。それは哲学や、生き方や、森羅万象や、思考についてであり、それら全てでもあったりする。哲学的な問題もまた、身体に影響を及ぼすしね。これはとても大きなテーマで、ダンスの世界ではまだ開拓されていない。すごく大変な挑戦だよ。テーマは大きくて新しいし、参考にすべき前例もないから、僕は独自の解釈で取り組むこともできる。

 多くのアジア諸国のダンサーがあなたと同じような経歴をもっていますよね。彼らはまず西欧のテクニックを学び、それからそれぞれ独自の文化に帰っていく。

ユン そうだね。おそらくそういった経験があるからこそ、自分のアイデンティティーを省みる必要に迫られるんだろうね。一番大事なのは、影響されて単にコピーすることと、心を開いて自分と違うアイデンティティーやものごとの真価を理解することとを混同しないこと。単にコピーするだけならとっても危険だよ。そうならないようにするために、折に触れて自分のアイデンティティーを省みる必要があるんだ。ここには、“コンテンポラリーダンス”といえば “ヨーロッパかアメリカ発のダンス”って考えられがちな、ダンス界に特有の問題も絡んでいる。それは間違った考えで、“コンテンポラリー”って言葉は、社会から発しているんだ。つまり、同時代の社会から同時代の文化が生まれ、同時代の文化から生まれるものがコンテンポラリーダンスなんだよ。アジアの国々はみな、これまでに近代化されてきた。そこでは、モダンダンスを学ぶことは即アメリカ行きを意味してきたけれど、モダンダンスって近代(モダニティー)の産物なんだよね。だから今だに、“アジア”といえば“伝統”、“コンテンポラリー”といえば“西洋”なんて考えがまかり通っているのがすごく不思議。とても良くないことだよ。それで僕は作品を作るとき、「自分は伝統的なトレーニングは受けてません」って言うようにしてるんだ。どこで作品をつくろうと、「あなたの動きは中国武術か太極拳みたい」って言われるし。「ブトーを学んだの? 動き方がゆっくりだからそう思うんだけど」って、勘違いな質問までされるし。アジア系の身体がゆっくりした動きをしてたらブトーに決まってると考える人もいるんだね。そんな風に見るのはすごく危険。だからそれを避ける術がちょくちょく必要になるってわけ。目にするものを気に入って受け入れてもいいけれど、「ベルギーのダンスっぽかったら、すっごくトレンディー」みたいな理由で簡単にコピーをすべきじゃないよ。じゃなきゃ、猫も杓子もフランドル地方から講師を呼ばなきゃって考えて、そのテクニックを盗んだ挙げ句、「やった。最新のテクニックを身につけたぞ!」って思うわけだよね。そんな考え方で動くなんて危険すぎるよ。

 あなたがダンスを踊るときや、作るとき、または観客としてダンスを観るときに一番大切にしていることは何ですか?

ユン 楽しむこと! あらゆる享受は楽しむことに始まる。楽しいと思ったなら、その良さを理解してるんだよ。僕は、ダンスに対して批評的な姿勢をとろうとして、楽しもうとしないような、典型的な批評家は好きじゃないな。ダンスを味わうのって、良い悪いとか、新しい古いとかに切り分けて分析することとは全然違うと思う。あら探しや論評なんて誰にでもできるよ。でも、ダンスの享受って、つながること、楽しむことができるってことなんだ。身体で、心で、雰囲気で、呼吸で、臭いで、汗でダンスを楽しんでいる瞬間、全てを楽しんでいるんだ。ダンスを観るときだって同じこと。全てのディテールを楽しんで心や自分自身を開いていれば、そのダンスを楽しむがままに受け入れることができるよ。

 暑い夏がユニークなところは?

ユン それはすっごく色んな参加者が混ざりあっているところ。僕は特にビギナークラスを見ているが好きなんだ。ビギナークラスの参加者には、15歳の人から60歳の人までいる。そのみーんながダンスを楽しんでいる。それぞれが自分なりのやり方で踊るときもあるけれど、一つ言えるのは、全体の雰囲気として彼らが楽しんでやっているところ。彼らは動く、笑う、遊ぶってことに貪欲だよ。それはすごく美しいことだと思う。あんなWSはどこでも見たことがないよ。大抵のWSはダンサーだけか、一般の人だけに対象が絞られちゃうけど、ここではミックス状態! 実際、クラスの初回に僕は、「初心者はどこ? あんまりいないじゃないか!」って文句を言ったくらいだよ(笑)。ここは、ダンサーとしてさほどトレーニングを積んでいない人と、それなりに経験のあるダンサーたちが参加している、初心者向けクラスなんだ。そして経験のあるダンサーたちも、(経験差など)気にせず“ビギナー”たちと混ざって踊り、一緒になって本当に楽しんでいたよ。それってとってもステキなことだよね。このクラスの性質は、この地域や、このWSの参加者たちや、この地域で活動している人たち、あるいは京都芸術センターの文化を映し出しているんだろうと思う。それがセンターのおかげなのか、この地域に広まっている文化のせいなのかはわからないけどね。中には、びっくりするようなバックグラウンドの参加者もいたよ。すでにミュージカルの分野で活躍してたり、大企業でサラリーマンをやったりしてる人なんかが、コンテンポラリーダンスのビギナークラスに来ているんだよ! みーんなやって来て、自分の身体にただただ夢中になる。僕が素晴らしいと思うのは、そのことに尽きるよ。よそでビギナーや初級のダンスクラスを教えると、たいていの人はシャイなんだ。「私は初心者なんだから、がんばってついていかなくっちゃ」っていつも思っているからね。でも、ここではそんな人はいない。全く初めての人でさえ、純粋に動いて汗をかきたがっている。この全体の雰囲気が皆に影響していると思うよ。

 ダンサーとして何か特別にやっていることとや、毎日の生活の中でやるようにしていることはありますか? もしあれば、何をしていますか?

ユン うーん……、やりたいことはあって、やらなきゃって自分に言い続けてもいる。でもやらないんだ。毎日言ってるよ。「そうさ、健康的な生活をしなくちゃ。今日は早く寝るぞ。」ってね。でも全〜然! いつも寝るのは2時、3時。問題ないかって? うーん、まぁ何か問題はあるんだろうね。もちろん、もっといい身体や健康も手に入るだろうし、コンディションもよくなるだろう……。だから毎日もっと鍛錬すべきだよね。でも、自分でもわかってる。僕はすごく怠け者なんだ。こんなことを聞かせてごめんなさい。でも僕は、自分を律するってことはてんで駄目。典型的な双子座なんだ(笑)。

                                       (4月27日/京都)

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